リッチー・ペティボーン

リッチー・ペティボーン
Richie Petitbon
生年月日 (1938-04-18) 1938年4月18日(86歳)
生誕地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ
ポジション セイフティ
大学 テュレーン大学
NFLドラフト 1959年/第2巡(全体21位)
主な経歴
レギュラーシーズン: 4勝12敗
ポストシーズン:       0勝0敗
キャリアレコード:     4勝12敗
選手成績 Pro Football Reference
所属チーム(選手)
1959-1968
1969-1970
1971-1972
シカゴ・ベアーズ
ロサンゼルス・ラムズ
ワシントン・レッドスキンズ
所属チーム(コーチ/管理職)
1973-1977
1978-1980

1981-1992

1993
ヒューストン・オイラーズ
ワシントン・レッドスキンズ
(セカンダリーコーチ)
ワシントン・レッドスキンズ
(守備コーディネーター
ワシントン・レッドスキンズ
(ヘッドコーチ)

リッチー・ペティボーン(Richie Petitbon 1938年4月18日 - )は、ルイジアナ州ニューオーリンズ出身の元アメリカンフットボール選手、アメリカンフットボールコーチ。シカゴ・ベアーズなどでプレーした。19993年にワシントン・レッドスキンズのヘッドコーチを務めた。

選手歴

ルイジアナ州立大学とテュレーン大学からアメリカンフットボールで奨学金のオファーを受けていたが、ロヨラ大学ニューオーリンズ校に入学、陸上競技で奨学金を得た。彼の希望は短距離走の選手として活躍することだったが、当時のコーチから400メートル走に転向することを求められたため、1年でテュレーン大学に転校し、フットボールをすることとなった。オフェンスとディフェンスで彼はプレーした。1958年にはクォーターバックとしてサウスイースタン・カンファレンスのオールチームに選ばれた。またキックオフリターナーも務めた。大学は1957年、1958年とベア・ブライアント率いるアラバマ大学を破る番狂わせを演じたが、1958年のシーズン終盤にはけが人が続出し、ルイジアナ州立大学に0-62と大敗した[1]

1959年のNFLドラフト2巡でシカゴ・ベアーズに指名されて入団した。ベアーズの当時のコーチはジョージ・ハラスでディフェンスバックコーチはジョージ・アレンであった[1]。ベアーズではセイフティとしてプレーし、プロボウルに4回選出された。また1963年には8インターセプトをあげた。チームは14-10でニューヨーク・ジャイアンツを破り1946年以来のNFLチャンピオンになった。気温華氏8度のリグレー・フィールドでペティボーンは試合終了直前、エンドゾーン内でY・A・ティトルのパスを阻止した[1]。彼はオールプロファーストチームにも選ばれた。ベアーズには1968年まで所属した。ジョージ・アレンがロサンゼルス・ラムズのヘッドコーチに就任した1969年にトレードでラムズに移籍した。この年ラムズは開幕から11連勝したがプレーオフでミネソタ・バイキングスに23-30で敗れた[1]1970年のシーズン終了後、アレンヘッドコーチがダン・リーブスに解任されワシントン・レッドスキンズのヘッドコーチに就任するとトレードでベテラン選手を多く獲得したがペティボーンもその1人となった。ベテラン選手を多く擁するチームはオーバー・ザ・ヒル・ギャングと呼ばれた。この年NFC東地区でダラス・カウボーイズに次いで2位となった[1]1972年、チームはNFCチャンピオンシップゲームでカウボーイズを26-3で破り第7回スーパーボウル出場を果たしたがマイアミ・ドルフィンズに7-14で敗れてドルフィンズの17勝0敗のパーフェクトシーズン達成を許した。彼はこの年で現役を引退、14シーズンで48インターセプト、3タッチダウンをあげた[1]

ベアーズではゲイリー・フェンシックに次ぐチーム歴代2位の37インターセプトをあげている[2][3]。1962年のロサンゼルス・ラムズ戦では101ヤードのインターセプトリターンタッチダウンをあげた[2]1967年グリーンベイ・パッカーズ戦では3インターセプトをあげた。

指導者歴

現役引退後、1973年から1978年までヒューストン・オイラーズのシド・ギルマンやバム・フィリップスの下でアシスタントコーチを務めた[4]1978年、ジャック・パーディーヘッドコーチのワシントン・レッドスキンズにセカンダリーコーチとして加わった。1981年にジョー・ギブスがヘッドコーチに就任した後、レッドスキンズの守備コーディネーターを務めた(一時期はラリー・ペッカチエロとともに守備コーディネーターを務めた。)。この間、レッドスキンズは第17回スーパーボウル第22回スーパーボウル第26回スーパーボウルと3回スーパーボウル優勝を果たした[1]。1993年にギブスヘッドコーチが退任すると後任のヘッドコーチに就任したが4勝12敗に終わり[5]、ジャック・ケント・クックオーナーに解任された。後任はNFC東地区ライバル、ダラス・カウボーイズの攻撃コーディネーターであったノーブ・ターナーである。

1983年、彼の指導するディフェンスはターンオーバーで61回ボールを奪い(ターンオーバーレシオは+43)14勝2敗の成績をあげた。1991年1月のフィラデルフィア・イーグルスとのプレーオフではランドール・カニンガムを5回サックした。1991年、チームはNFL2位の224失点しか許さなかった。チームは14勝2敗の成績で第26回スーパーボウルで優勝した[5]

2011年12月にレッドスキンズのリング・オブ・フェイムⅡ選出された[6]

家族

兄のジョン・ペティボーンもNFLでプレーした。二人ともルイジアナ州のスポーツ殿堂入りを果たしている[1]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h “Richie Petitbon”. ルイジアナ州スポーツ殿堂. 2023年2月24日閲覧。
  2. ^ a b “Gridiron great”. チューレーン大学 (2017年8月31日). 2023年2月24日閲覧。
  3. ^ Larry Mayer (2012年10月7日). “Tillman repeats stellar performance”. シカゴ・ベアーズ. 2023年2月24日閲覧。
  4. ^ “Richie Petitbon – Greater New Orleans Sports Hall of Fame”. 2023年2月26日閲覧。
  5. ^ a b “Flashback: Petitbon A Master of Adjustments”. ワシントン・レッドスキンズ (2015年6月13日). 2023年2月26日閲覧。
  6. ^ “Richie Petitbon gets Ring of Fame nod”. ESPN (2011年12月16日). 2023年2月26日閲覧。

外部リンク

  • 通算成績と情報 NFL.com, or Pro-Football-Reference (英語)
先代
ジョー・ギブス
ワシントン・レッドスキンズヘッドコーチ
1993
次代
ノーブ・ターナー
AP通信 オールプロ ファーストチーム選出(1回)
AP通信 1963 オールプロ ファーストチーム
クォーターバック
ランニングバック
ワイドレシーバー
  • ボビー・ジョー・コンラッド(英語版)カージナルス
  • デル・ショフナー(英語版)(ジャイアンツ)
タイトエンド
オフェンシブラインマン
  • ディック・シャフラス(英語版)(ブラウンズ)T
  • ジム・リンゴ(英語版)(パッカーズ)C
  • ジェリー・クレイマー(英語版)(パッカーズ)G
ディフェンシブエンド
  • ジム・カッカヴェージ(英語版)(ジャイアンツ)
  • ダグ・アトキンス(英語版)(ベアーズ)
ディフェンシブタックル
  • ロジャー・ブラウン(英語版)(ライオンズ)
  • ヘンリー・ジョーダン(英語版)(パッカーズ)
ラインバッカー
  • ジョー・フォルトゥナート(英語版)(ベアーズ)OLB
  • ビル・ジョージ(英語版)(ベアーズ)MLB
  • ジャック・パーディー(英語版)ラムズ)OLB
コーナーバック
  • ハーブ・アダリー(英語版)(パッカーズ)
  • ディック・リンチ(英語版)(ジャイアンツ)
セイフティ
  • リッチー・ペティボーン(ベアーズ)
  • ルーズベルト・テイラー(英語版)(ベアーズ)



キックリターナー