工藤公康

工藤 公康
日本一を決めた直後のセレモニー
(2017年11月4日 日本シリーズ第6戦 福岡 ヤフオク!ドーム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市昭和区(現:天白区
(同県豊明市とする文献もある)
生年月日 (1963-05-05) 1963年5月5日(61歳)
身長
体重
176 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1981年 ドラフト6位
初出場 1982年4月10日
最終出場 2010年8月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 福岡ソフトバンクホークス (2015 - 2021)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2016年
得票率 76.6%(337票中258票)
選出方法 プレーヤー表彰
この表について
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工藤 公康(くどう きみやす、1963年5月5日 - )は、愛知県名古屋市昭和区(現:天白区[注 1]出身[1](同県豊明市出身とする文献もある。後述)の元プロ野球選手投手、左投左打)[2]野球解説者野球評論家

選手時代は14度のリーグ優勝、11度の日本一を経験[3]西武ライオンズ福岡ダイエーホークス読売ジャイアンツ(巨人)の3球団で日本シリーズを制覇し、優勝請負人と呼ばれた[4][5]。日本シリーズ通算最多奪三振(102奪三振)記録を保持する[6]。また、最高勝率もNPB最多タイ記録となる4回獲得している。

現役引退後は、2012年 - 2014年の3年間にわたり野球解説者野球評論家として活動し、2015年から2021年まではダイエーの後身であるソフトバンクの監督(第21代)として指揮を執っていた[7][8]。監督としては2020年までにソフトバンクを3度のパシフィック・リーグ(パ・リーグ)優勝[9]、5度の日本一(日本シリーズ優勝)に導いている[10]。監督退任後は再び野球解説者・野球評論家として活動している。

子供は5人おり[11]、長男は俳優工藤阿須加[12]、長女はプロゴルファー工藤遥加[13]

経歴

プロ入り前

出生

1963年5月5日愛知県名古屋市南区で生まれた[注 2][14]。出生当時は3人兄弟の三男で[15]、「公康」の名は父親から「公(ひろ)く庶民的であってほしい」との願いを込められて名付けられた[14]。父親[注 3]は公康が生まれた当時、故郷の九州から名古屋に出てきたばかりで、名古屋市交通局バス運転手として働いていたが[14]、2歳の時に妻(公康の実母)と離婚[15]。そして公康が6歳のころに後妻(公康の継母)と再婚し、妻の連れ子と、結婚後に2人の間に生まれた息子を加えた7人家族で暮らしていた[注 4][15]

出身小中学校は名古屋市天白区[注 5](当時は昭和区[注 1]市立高坂小学校市立久方中学校[注 6][18][22]、工藤の高校時代、家族は天白区高坂町の市営住宅「高坂荘」に住んでいたが[23]、工藤が西武に在籍していた1984年に同県豊明市二村台に引っ越している[注 7][1]。1987年11月の『週刊現代』によれば、豊明市にあった工藤の実家は4年前(1983年ごろ)に工藤本人が父とともに共同名義で購入した住宅だという[25]

『ホームラン』(日本スポーツ出版社廣済堂出版)の選手名鑑によれば、工藤の出身地は1982年版 - 1984年版では「愛知県名古屋市天白区」とされていたが[26][27][28]、1985年版および2015年版・2020年版選手名鑑では「愛知県豊明市」とされている[29][30][2]

小中学校時代

工藤は高坂小学校3年生から野球を始めた[31]。まず父親から野球を教えられ[32]、一緒にキャッチボールをするなどしていたが、幼少期の工藤[注 8]は野球は好きではなかった[33]。これは、熱狂的な読売ジャイアンツ(巨人)ファンであった工藤の父親が[17]、巨人が負けると機嫌を損ねて子供たちに当たり散らしたり、キャッチボールの際に息子がうまく投球できないと自分でボールを拾いに行かず、「早く取ってこい!」と怒鳴るなどしていたためだった[33]。一方、工藤は父親にカーブを教えてもらって投げたところ、ドロップ気味に大きく変化したため、父親から「お前は投手をやったらいいかもしれない」と言われていた[32]。父によれば兄弟たちは右利きだったが、公康だけは左利きだった[34]

工藤は4年生で高坂小の野球部に入部すると、5年生からはカーブを武器にエースとして活躍[1]。6年生の時には4番打者(投手)として中日新聞少年野球大会に出場し、名城公園で満塁本塁打を打ち、チームを大会優勝に導いている[32]。ただし、一学年上の生徒にいじめられ一時的に体操部に転部してから戻っている[35]

少年時代には野球週刊誌を購入してプロ野球選手の投球フォームを研究したり[注 9]バッティングセンターに通ったりして野球に打ち込んだが[37]、中学入学直後は野球部ではなく、ハンドボール部に入部[38]。しかし、工藤の野球センスに注目した教師(ハンドボール部の顧問)によって野球部に強制的に移籍させられ[38](野球部からハンドボール部に移籍したい生徒がいたためトレードされた[39])、すぐにエースとなる[1]。中学3年生の時には名古屋市大会の優勝投手になった[40]が、愛知県大会決勝戦で敗退し、全国大会には出場できなかった[1]

名古屋電気高校時代

久方中学校を1978年度(1979年3月)に卒業[41]。工藤家は経済的に貧しく、子供5人全員を無条件で高校まで進学させる余裕がなかった[注 10]ため、父は工藤に対し「野球で特待生として声がかかれば(高校に)行かせてやる。そうでなければ働け」と言っていたが、中学時代から評判の好投手だった工藤は地元・名古屋市の野球部名門校である名古屋電気高等学校(現:愛知工業大学名電高等学校〈愛工大名電〉)や享栄高校などからスカウトされた[注 11][42]。社会人野球まで経験した中学校の用務員が人脈を生かして複数の高校でテスト受験の機会を作ってくれたという[43]。当時は「甲子園を目指す」「プロ野球選手になる」という夢を持っていたわけではなかったが、工藤は結果的に野球を高校進学の手段とすることになった[44]。名古屋電気は当時まだ新興校だったが、当時監督に就任したばかりの中村豪が工藤の才能に惚れ込んでスカウトし、入学させた[45]。工藤は高校入学後、実家を出て寮生活を送るようになり[46]、1年生の秋からエースとして背番号1を着用した[40]。同校野球部は、工藤の他にも中村稔(1番打者・遊撃手 / 後に日本ハム入り)・高橋雅裕(2番打者・二塁手 / 後に大洋入り)・山本幸二[注 12](4番打者・捕手 / 後に巨人入り)らが在籍したタレント集団だった。[40]。高校時代は制球力を鍛えるため、学校とグラウンドの間(約13 km)を連日走ったり、山本とともに投球練習を繰り返したりしていた[40]

高校時代は、同学年かつドラフト同期の槙原寛己大府高校から巨人1位指名)・浜田一夫愛知高校から中日2位指名)とともに、愛知三羽烏と呼ばれ[29]速球と大きく割れるカーブを武器に活躍[47]。2年生秋の愛知県大会では自らの牽制悪投で西尾東高校に敗れた[40]

1981年4月29日、春の愛知県大会の準々決勝(熱田球場)で槙原を擁する大府高校と対戦[注 13]し、槙原から場外本塁打を打って7対1で勝利[40]。そして県大会で優勝し、中部大会に進出したが、2回戦(静岡代表・御殿場西高校との試合)で延長12回二死から連続5四球により逆転サヨナラ負けを喫した[49]。これにより、中村監督が2年生の左腕・長谷川に夏の大会を託すことを考えたほどのスランプに陥ったが、槙原の活躍や長谷川の成長に触発され復調[50]夏の愛知県大会では第5回戦(熱田球場・対東邦高校戦)で打席に立ったところ、右目付近に死球を受けて医務室に搬送されたが、意識朦朧状態になりながらも続投を志願[50]。中村も「将来のためにも、このまま終わらせたくない」と続投させ、4被安打に抑えて完封勝利[51]。そして浜田にも投げ勝ち、念願の甲子園(第63回全国高等学校野球選手権大会)出場を果たした[48]

甲子園デビュー戦は長崎代表長崎西高校との試合[1](第2回戦・8月13日)[52]。この試合では16奪三振を記録し[1]、史上18人目(19度目・金属バット採用後では初)のノーヒットノーラン[注 14]を記録(4対0)[52]。3回戦(対北陽高校戦)でも高木宣宏と投げ合い[54]、速球の球速は138 km/h[48]、投球成績も延長12回21奪三振[注 15]を記録[1]。チームは延長12回裏に中村稔のサヨナラ本塁打により勝利し[53]、準々決勝・志度商業高校(香川代表)戦では5回表に自らソロ本塁打を放ち、相手打線を2被安打に抑えて完封勝利を記録[56](12奪三振)[1]。これにより、チームを史上初のベスト4進出へ導き[56]金村義明を擁する兵庫代表報徳学園高校との準決勝(8月20日)に臨む[23]。しかし蓄積疲労により上腕に違和感を覚えるようになり[57]、7奪三振・13被安打の投球内容で[1]、試合も3対1で敗れ、決勝戦進出を逃した[23]。同大会における試合数は4試合[58]投球回数は39イニング、奪三振数は56(当時・大会歴代5位)[47]

ドラフト指名

甲子園での活躍をきっかけに「屈指のサウスポー」と高い評価を得るようになり、熊谷組リッカー東京ガス本田技研など社会人野球チーム二十数社が名古屋電気高校に工藤の入社を依頼していた[59]。一方でプロ球界のスカウトからも「即戦力の左腕」と評価され[48]、同年(1981年)のドラフト会議における目玉選手として注目されるようになり、会議直前の『毎日新聞』では金村・槙原とともに「大型投手トリオ」「高校のビッグスリー[注 16][58]、『中日スポーツ』(中日新聞社)では「ドラフトでは人気を集め、1位指名は確実。(パシフィック・リーグ〈パ・リーグ〉の)西武ライオンズを除く11球団が事前調査を済ませている」と報道されていた[55]日本ハムファイターズ横浜大洋ホエールズロッテオリオンズの3球団を除く9球団が工藤に対し、事前に指名の挨拶をしていた[60]が、地元・愛知県に本拠地(ナゴヤ球場)を置く中日ドラゴンズは特に工藤を強く勧誘し[61]、同じく「愛知三羽烏」とうたわれた槙原[注 17]・浜田や、尾上旭中央大学)・津田恒美協和醗酵[注 18]とともに1位指名候補に挙げていた[65](最終的には尾上を1位指名)[64]

一方で工藤本人はセントラル・リーグ(セ・リーグ)球団[58](特に巨人)[注 19]を希望していた[55]が、ドラフト会議4日前(11月21日)に突然「プロ入り拒否」を宣言[66]。同日に工藤の父も、指名の挨拶をしてきた9球団に対し「指名お断り」の文書を発送した[60]

しかし、ドラフト会議当日(11月25日)に西武が6位で工藤を強行指名した[60]。工藤は指名直後こそ「進路は決定している。『プロには行かない』と言ったのに指名されてびっくりしている」と述べたほか、工藤の父も入団交渉に応じない構えを見せていたが[67]根本陸夫管理部長が指名直後に出向き、その後も西スカウトを中心に粘り強く交渉[68]。その結果、工藤も両親も最終的には翻意[注 20]し、工藤は12月28日に西武入団を表明して西武と契約[68]。その後、工藤の父親が一転して「いったん入ることになっていた熊谷組が(西武入りの)了承をしていない[注 21]ことが分かった。約束が違う」と態度を硬化させ、契約の白紙撤回を求めた[70]が、1982年1月6日に熊谷組野球部部長・大塚本夫(同社専務)が「工藤本人と父親から『熊谷組入りしない』との意思表示がない限り、当社野球部との間で交わした入社の約束は有効だが、この件に関して熊谷組が圧力をかけることはない」と表明[71]。工藤の父は同月8日に熊谷組本社を訪ねて工藤の入社内定取り消しを申し入れ[72]、名電高にも西武入りの了承を得た[注 22]ため、工藤は同月12日に正式に西武への入団を発表した[76]

入団時の経緯については、管理部長(編成責任者)の根本陸夫が主導して工藤をドラフト指名し、入団に至らせたとされ、俗に「根本マジック」と称される出来事のひとつとされている[77]。しかし、広岡達朗1982年より西武の監督に就任)は「ドラフト会議時の根本は工藤の指名に反対する立場で、西武監督に就任したばかりの自分が指名を強く進言した。結果、ドラフト会議当日に会場で6位指名することを決めた」と述べている[77][78]。背番号は47で、同年のドラフト1位だった伊東勤が契約金5000万円・年俸300万円の契約だったのに対し、工藤は契約金6000万円・年俸480万円とともに伊東より高額だった[79]。西武入団時には「目標となる選手もライバルもいない。自分だけの独特の型を持ちたい」と発言した[60]一方、「尊敬する人」としては同じ左腕の金田正一を挙げていた[76][1]。高校3年生夏ごろの体重は70 kg(本人曰く「ベスト体重」)だったが、プロ入り時には体重が7 kg増えていた[80]

なお「愛知三羽烏」全員について高い評価を下していた中日は、最終的に3人のうち浜田一夫のみを「3人の中で1番」として2位指名したが[81]、工藤・槙原[注 17]はともにNPBで通算150勝以上を挙げた[83][84]一方、浜田は1勝もできず球界を去った[85]。また、中日はドラフト5位でプロ入り拒否を表明していた浜田知明(電電東海)を指名[注 23]したが、これについて『中日スポーツ』には「今年のドラフトは『不作』『コマ不足』と言われており、指名枠が増えたので『交渉権だけでも確保しておこう』という球団が出てきてもおかしくない。名電からは山本が巨人から2位指名を、中村稔が日本ハムから3位指名を受けたが、名電関係者は『地元の中日にも1人くらい指名してほしかった』と言っていた。入団説得が困難な浜田知を指名するぐらいなら、純地元選手である工藤を指名すべきではなかったのか」というコラムが掲載された[88]

西武時代

入団1年目の1982年から監督の広岡達朗から「坊や」とかわいがられていたが[89]、一方でその広岡から、特に基本練習の反復や食生活の重要性などに関して厳しい指導を受け[注 24]、大きな影響を受けた[91][92][93][94][95][96][97]。広岡からは「マウンドでオドオドせず度胸がある。球の力もプロ級で、短いイニングなら使える」と評価を受け、高卒新人ながら開幕一軍ベンチ入りを果たす[98]。8月31日の対日本ハムファイターズ後期9回戦[89]西武ライオンズ球場)でプロ初勝利[99]。同年は中継ぎで起用されて27試合に登板し、1勝1敗・防御率3.41と好成績を残した[100]この年のパ・リーグプレーオフに登板し、第2戦では江夏豊と投げ合って勝利投手になっている[注 25]。なお前期後期制時代のプレーオフはこの年が最後であった。

2年目の1983年は「新人王候補の筆頭」として注目されたが、オープン戦開始後はその声も薄れていった[101]。3月ごろには武器であるカーブの切れ味が鈍り、本人も自信を喪失しかけていたが、5月15日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)で3番手投手として登板し、シーズン初勝利[102]。同年も主に中継ぎで起用され、防御率も3.24を記録した一方[100]、2試合に先発した。しかし、入団3年目の1984年はわずか9試合の登板に終わり[100]アメリカマイナーリーグ(1A級サンノゼ・ビーズ)へ留学させた。これに関して広岡は「最初はワンポイントで使っていたのですが、ランナーを背負った厳しい場面でもビシッと抑えてくれました。それが、じゃあもう1イニングとなるとボコボコに打たれてしまう。まるで別の投手でした。ピンチを切り抜けた瞬間に緊張が切れてしまっていたのでしょう。このままではこの子は伸びない。より厳しい環境に放り込む必要がある、と考えました。」と語っている[103][104]。工藤は留学先でメジャーリーグを目指して真摯に野球に取り組む選手たちと過ごしたが転機となり、また帰国後に宮田征典コーチの指導を受け、以降主力投手となった[105]

1985年1月5日(自主トレーニング開始日)にキャッチボールをしていたところ、肩を痛めて選手生命の危機に立たされる[101]。そのため開幕直後は二軍(イースタン・リーグ)で治療に専念したが、4月中旬に一軍昇格して以降も中継ぎ・ワンポイントで登板[101]。7月9日の対南海ホークス戦でプロ入り初の完投勝利を挙げると、8月2日の対日本ハム戦、8月8日の対近鉄戦と3戦連続で完投勝利を記録[106]先発ローテーションに加わり[69]、34試合登板[101]・8勝3敗・防御率2.76の成績を残し[69]、最優秀防御率のタイトルを獲得して広岡西武の3度目のパ・リーグ優勝に貢献[100]

1986年は初勝利が5月8日の対近鉄戦と出遅れたが、7月13日の対近鉄戦では9回一死までノーヒットノーランに抑える快投を見せた[69]。それ以降は調子を上げ、2桁勝利(11勝)を挙げた[69]。また完投数も10を記録した。広島東洋カープとの日本シリーズでは西武が第1戦を引き分けた後3連敗で迎えた第5戦の延長12回、投手である工藤がサヨナラ安打を記録した。その後西武は息を吹き返し4連勝で日本一。1勝2セーブを挙げた工藤はシリーズMVPに選ばれた。

またこの頃、理由は不明であるが背ネームが「KUDOH」と「K.KUDOH」の2種類を使い分けていた。

1987年は15勝を挙げたほか、シーズン最多の23完投を記録し、2度目となる最優秀防御率、最高勝率とベストナインのタイトルも合わせて獲得。しかし、この年のMVPは優勝争いの後半戦に9勝1敗と活躍した東尾修が選出された。それでも、この年の日本シリーズでは巨人相手に1完封を含む2勝1Sで前年に続き2年連続MVPを受賞し、名実共にパリーグを代表する左投手となる。

1988年は開幕戦は完封勝ちも、その後は打ち込まれる試合が続き、6月に二軍落ちした。一軍復帰後は調子を取り戻し、10勝10敗1セーブだったが、11完投を記録し、これで3年連続2桁完投を記録した。1989年は調子を落とし、4勝8敗2セーブの成績で終わり、中継ぎで登板することもあった。最終的な登板数は33だった。

1990年は故障離脱があり、9勝を挙げたものの、1984年以来となる投球回数100未満でシーズンを終了した。1991年シーズンに自己最高の16勝を挙げ復調し、最高勝率を獲得。1992年も11勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。

1993年のシーズンは15勝3敗、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、そして自身初となるパ・リーグMVPを受賞する。この年のシーズンオフから始まったFAの権利を取得するも西武に残留。

1994年も11勝を挙げ、4年連続2桁勝利を記録したが、秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないことから11月9日にFA権行使を表明し、11月15日に西武を退団した。根本が球団社長、王貞治が監督に就任した福岡ダイエーホークスへの移籍が12月6日に発表された。同年、石毛宏典もFAでホークスへ移籍したが、同一チームの2選手が、別の同一球団へ同一年度にFA移籍した史上初の事例となった。西武の黄金時代を支えた秋山幸二と再びチームメイトになり、ダイエーの再建を託された。

ダイエー時代

1995年、移籍後の初登板は古巣西武との開幕戦の先発で、この試合は大乱打戦で工藤も4回を投げ8失点だったが試合はチームが勝利したため負けは免れた。シーズンでは6月に1か月ほど故障離脱はあったものの、チームトップの12勝を挙げたが、チームは不振で自身初のBクラスを味わった。

1996年は2年連続の開幕投手を務め29試合に先発し、9完投を記録し8勝を挙げ、初の178奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。一方、開幕から黒星先行で月間勝ち越しが一度もなかった。結局、同年の成績は29試合登板・8勝15敗・202イニング2/3投球回・防御率3.51(パ・リーグ規定投球回到達者数20人中12位)の成績で[107]、リーグ最多の15敗(近鉄酒井弘樹と同数)を喫した[108]。一方、同僚の武田一浩は防御率(3.84、20人中16位)、投球回数(171回)とも工藤を下回っていたが、リーグ3位[注 26]となる15勝[109](8敗)を挙げている[107]

1997年は背番号を西武時代と同じ47に戻した[110]。同年は2年ぶりの2桁勝利となる11勝を挙げたが、一軍定着後初となる完投0でシーズンを終えた。

1998年は2年ぶりに開幕投手を務めたが故障離脱があり、7勝に留まった。しかし、チームはダイエー譲渡後初となるAクラス入りを果たし、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位(しかし前年の成績はオリックスが上だった為開幕権はオリックスになった)に入り、工藤自身西武時代の1994年以来4年ぶりにAクラスを経験した。

1999年は、工藤はエースとして11勝を挙げ4度目となる最優秀防御率と、2度目となる最多奪三振のタイトルを獲得。ダイエーの福岡移転後初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれた。中日ドラゴンズと対戦した日本シリーズでも第1戦に先発し、シリーズ新記録となる13個の三振を奪って完封したこの試合で自身の日本シリーズ通算奪三振数を86に伸ばし、稲尾和久が持っていた記録(84)を塗り替えた[111]。中日監督の星野仙一は「敵を褒めるのは嫌だが、工藤はウチを0点に抑えたわけで、たいしたモンだ」と悔しさを露にしてコメントした。工藤自身はこの試合のピッチングは「生涯最高の出来だった」と評し、三振を奪うのもゴロを打たせるのも自分の思い通りにいったと後に自著で語っている。「圧倒的中日有利」との下馬評の中、工藤の完封で勢いに乗ったダイエーが4勝1敗で日本一に輝き、工藤もシリーズ優秀選手に選ばれた。

球団代表・高塚猛による工藤への介入行為

直後の10月下旬に行われた契約更改の席上で、球団よりそれまでとは異なる年俸査定方法の提案(具体的には、従来の年俸をベースに提案をされたこと)が工藤に対してなされ、かつ、当時ダイエー球団代表であった高塚猛より「工藤君の登板の火曜日は一番客の入りが悪い」と工藤に放言をしたことで、工藤は球団に不信感を募らせて「この1年間の努力が何だったのかと言う気持ちになりました。」「出て行くしかないのかな」「残ることはないと思う」「福岡のファンには大変申し訳ないが、こうなった以上、前を向いて歩いて行くしかない。移籍先の希望はありません」とコメントした上で、シーズン終了後の11月1日にFA宣言した[112]

すると代表の高塚が球団名義で10月下旬の契約更改時の工藤の行動と言動について、球団の公式サイトで公表して報復的な応戦を実行した。また、高塚は工藤に対して「FA宣言をすることは、福岡でなくともよいということになってしまう」との文章も記述し、工藤のダイエー残留に反対する姿勢をも見せた。これに対して、工藤はこれらの内容が事実と異なる旨を公表し、後に高塚による虚偽内容の文書であることが発覚した。加えて、高塚が仕掛けたこの応戦もファンからのブーイングで不発に終わったことで、公開から約2時間半後に球団公式サイトより削除された。これが工藤に対して火に油を注ぐ形となり、球団と工藤との関係は修復不可能な状態に陥ったかに見えた[113]。しかし翌日、球団オーナーの中内功が高塚のこの行為を撤回し、中内が張本人の高塚に成り代わる形で謝罪した上で工藤に残留を要請した[114]が、高塚と工藤は互いに感情的に拗れてしまったこともあり、工藤は残留を拒否し、移籍を決断した。

なお、高塚は後に小久保裕紀に対しても、工藤以上の規模で、「小久保事件」と呼ばれる報復行為を実行している(その詳細は小久保裕紀#突然の巨人への無償トレードを参照)。

この間、11月8日に、福岡ダイエーホークスのファンに対して感謝の意と移籍の決断をした旨のメッセージを公表した[115][116]

一時は中日ドラゴンズかメジャー移籍に絞られたとも報道されたが[117]、最終的に読売ジャイアンツへの移籍が12月14日に発表され、背番号「47」、4年契約を辞退し、単年契約を結んだ[118][119]。FAにあたっては「もっと(ダイエーで)やりたかった」とも語った。巨人は同年オフ、工藤に加えて江藤智もFAで中日との獲得競争を制する形で獲得に成功していたが、中日の現場の本命は江藤であり、工藤は中日のフロントの意思で急遽獲得に乗り出したものであり、最終的に中日はどちらも巨人にさらわれ、新たな主軸候補として獲得したディンゴも期待外れに終わっている[120]

2008年に『週刊ベースボール』のインタビューで、オークランド・アスレチックスからもオファーがあったことを明らかにした。結果的に日本を選んだのは、相談した野茂英雄に「迷っているなら、それは日本に残りたいということ。一度でも迷ったら海は渡らないほうがいい」と助言を受けたからだという[121]

移籍に際し、福岡では工藤の残留を願う17万3000人もの署名が集まった。工藤は移籍後、約7年かけて署名に参加したファン全員に住所と宛名を自筆した感謝の手紙を送った[122]

巨人時代

移籍1年目の2000年は「優勝請負人」として投手陣を引っ張りシーズン序盤から快調に勝ち星を重ね、前半戦だけで10勝を挙げる活躍を見せる。シーズン終盤に右ふくらはぎを痛め一時離脱したものの、12勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、最優秀投手賞を受賞。日本シリーズでは故障をおして第1戦に先発し、前年まで所属していたダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。しかし、翌年2001年は左肩の故障に苦しみ、5試合の登板に終わる。

2002年は移籍後初、自身としても1999年以来の防御率2点台だったが援護に恵まれず9勝8敗止まり。それでもチームのリーグ優勝に貢献した。そして同年の日本シリーズでは古巣の西武と対戦。第3戦に先発し、古巣相手に8回2失点8奪三振と好投した。試合はそのまま巨人が勝ち、自身も勝利投手となり、自身の持つシリーズ奪三振日本記録を102まで伸ばしたうえ、チームも続く第4戦を制して日本一を果たした。しかし、2003年は故障で戦列を離れたこともあり、7勝6敗、防御率4.23に終わる。

2004年8月17日、対ヤクルト戦で2失点完投勝利で通算200勝を達成、日本プロ野球史上23人目、41歳3か月での200勝は当時の史上最年長記録。また、この試合でジェイソン・ベバリンから右翼席にプロ入り初本塁打を放った。41歳・プロ入り23年目での初本塁打は日本プロ野球史上最年長記録。ただ打者としては、2000年から2002年にかけて84打席連続無安打というセ・リーグ記録を残している(日本記録は嵯峨健四郎の90打席)。自著の中で「昔日本シリーズで打ったイメージがあるらしく、巨人に入った時は『バッティングも期待してるぞ』と声をかけてもらったが途中から『バッティングはもういい。バントだけしっかりやってくれ』と言われるようになった」と述べている。同年は防御率こそ4点台だったが、規定投球回に到達[注 27]し4年ぶりの二桁勝利を挙げた。

2005年5月19日の対ソフトバンク戦でセ・リーグ最年長完投勝利記録、8月26日の対阪神戦では42歳3ヶ月で最年長二桁勝利記録を更新した[注 28]。同年のオールスターゲームでは第2戦にリリーフで登板し、オールスター最年長登板記録(42歳2ヶ月)を樹立した[注 29]。この年は11勝を挙げ2年連続で二桁勝利を記録したが、規定投球回には到達しなかった。

2006年はシーズン前半に3勝を挙げる好スタートを切り、7月には大野豊(引退時43歳1ヶ月)を上回り、実働10年以上の選手としてはプロ野球史上初めて43歳2ヶ月以上の現役左腕投手となった[注 30]。しかし、6・7月の2試合で計20失点を喫し、更に肩を痛めて登録抹消。最終的に3勝2敗、防御率4.50の成績に終わってしまう。12月の契約更改では限度幅を超える年俸ダウンの提示を受け保留。年越し、トレーニング地へ渡米していた。オフには、巨人の若手の成長株3人(会田有志山口鉄也木村正太)をアリゾナ自主トレに帯同させ、プロとしての私生活やトレーニングの大切さを一から指導を行い、才能を開花させた。また、この自主トレ期間中に門倉健がFA移籍したことに伴う人的補償で横浜ベイスターズへの移籍が決まった。

横浜時代

2009年、横浜時代

2007年1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、また、それに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えていることなどが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意であり、工藤投手に大変失礼なこと」と表明。これに対し、工藤自身は「あ、入ってなかったんだとは思ったが、僕がフロントだったら43歳の選手はプロテクトに入れない」と巨人フロントへの理解を示し、1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。この移籍に際しては、渡辺恒雄巨人軍オーナーから「元々、我々(巨人)がお願いして来てもらった偉大な投手。今回の件は残念だが、引退後は巨人軍でフロントに入ってもらいたい」とコメントを出すなどの対応がとられた。自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年の江藤智に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。

横浜へ移籍後も背番号は47。年俸は前年の2億9000万円から2億円減の9000万円(他に最高5000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額(当時)となった(金額は推定)。

2007年4月1日、対巨人戦に登板し一軍での実働年数が26年になり、野村克也の持つプロ野球最長記録に並んだ。しかし開幕当初は不安定な投球が目立ち3連敗で自ら二軍行きを志願し調整、5月11日の対広島戦の9回に9年ぶりのリリーフ登板で一軍復帰。5月23日、対西武戦に先発登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。

同じ年7月12日の対中日戦で、6回裏に中田賢一から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した[注 31]。2007年7月24日の対巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手になった。規定投球回には満たなかったものの4年続いた防御率4点台を3点台に収め7勝を挙げた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。

2008年、4月1日の対ヤクルト戦で先発して実働27年となり、野村と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで二軍に降格した。9月9日の日本ハム対湘南戦(鎌ケ谷)16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ最年長勝利投手となった。しかし、一軍では1勝も出来ず、1984年以来24年ぶりの一軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。

2009年には、代名詞となった背番号47の着年数が26年に達し、プロ野球新記録となった。4月8日には古巣の対巨人戦に先発し、自らの持つ実働年数記録を28年に更新した。この試合に8失点でKOされると、その後の二軍での調整を経て、チームの方針からリリーフに転向。工藤の本格的なリリーフは1989年以来20年ぶりのこととなった。5月5日の対巨人戦では、自身初のホールドを記録。同5月25日の対楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えると、チームが逆転サヨナラ勝ちしたことにより、自身が持っていた44歳4か月のセ・リーグ最年長勝利記録を46歳20日に更新した。この勝利で通算223勝とし、村山実を上回り単独13位。また40歳以降37勝目となり、36勝で並んでいた大毎若林忠志を上回り単独1位となった。7月1日の対ヤクルト戦で1-2とリードされていた6回表二死から登板し打者1人をわずか4球で抑え、その裏チームが逆転しそのまま9-5で勝利したため通算224勝目を挙げた。この試合は地方である山梨・小瀬球場で開催されたためファンサービスも兼ねての登板であったが、結果としてこれがプロ野球生活最後の勝利となった。この年自己最多の46試合に登板したが、2年連続の最下位が濃厚となった中でチームの若返りを模索していた[123]球団は、9月15日に戦力外通告とシーズン終了をもって自由契約にすると発表した[123][124]。移籍先については「国内しか考えていない」とした上で現役続行の意思を示した[123][124]

第2次西武時代

その中で、2009年11月14日に手薄な中継ぎ左腕の補強を目指していた西武が獲得を発表し[125]、1994年以来の古巣への復帰となった[125]。工藤のデビュー以来、ほぼ毎年つけ続けてきた背番号47は主軸左腕投手の帆足和幸が着用していたが、帆足は「47は元々工藤さんの番号。球団や工藤さんが望まれるのであれば喜んで返還する」とコメントした。帆足自身は西武入団時に尊敬する投手として工藤の名を挙げ、47をつけたいと球団に対して数年来にわたって願い出ていた末の着用であったが、工藤本人も「若くて旬な選手に気を遣わせたくない」と固辞[126]。尚、帆足は後にソフトバンクへ移籍し、工藤がソフトバンクの監督に就任した際にも背番号47を背負っている。11月16日、背番号は「55」と発表された。これについて工藤は「家で子どもたちに相談したら、イケイケゴーゴーだと言われた」「藤井の背番号15の5も入っていて、いいなと思った。彼の分も野球を続けていきたいと思っている」とコメントした[127]

2010年7月18日、前半戦終了間際に復帰後初めて一軍登録された。7月20日の対ソフトバンク戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム)で、7回裏に先発・野上亮磨の後を受けて2番手で登板し、自身が持つ実働年数の記録を29年に更新した。しかし、以後は10試合で0勝2敗、防御率10.50。8月25日の対ロッテ戦では同点の場面で登板したものの勝ち越しの本塁打を打たれ、28日に登録抹消となった。9月27日に球団から戦力外通告を受け、10月1日に退団[128]

西武退団後・引退表明

西武退団後も現役続行の意思を表明していたが、2011年シーズンは獲得に名乗りを上げる球団が現れず、トレーニングを続けながらメジャーリーグへの挑戦も視野に入れて1年間浪人した[129]。現役続行に向けてトレーニングを積む傍ら、文化放送のゲスト解説者も務めた。この頃父親が死去しており、告別式に顔を出せないほど多忙だったという[130]

7月、秋にメジャーリーグのトライアウトを受験するつもりである旨表明した[131]が、後述の通り肩の傷が癒えなかったことから受験には至らなかった。

2011年11月22日のスポーツ報知の取材で、肩関節唇に炎症を抱えるなど肩の調子が上がらないことで、本人の口から引退を示唆する発言が出た。最終的な進退判断は、家族と話し合って決めるとしていた[132]。その後、横浜ベイスターズを買収したDeNAに新監督就任を要請されたが、12月5日に交渉が合意に至らず破談したことが明らかになった[133]。工藤はこの時鹿取義隆達川光男の入閣を要求したが、高田繁GMにより却下されている[134]。12月9日、自身のブログで肩の故障が治癒しないことから現役引退を決意したことを表明した[135]

2012年4月7日、西武ドームでの西武対ソフトバンク戦の試合前に工藤による始球式と引退セレモニーが行われ、工藤と共に西武黄金時代を支えた西武監督の渡辺久信がキャッチャー、ソフトバンクの監督の秋山幸二が打席に立った[136]。工藤の投じたゆるい大きなカーブはワンバウンドし、「マウンドから届かなかったのは初めて」とコメントしている[137]

引退後

2012年からは、日刊スポーツ野球評論家や文化放送ライオンズナイター』の野球解説者として活動[138]テレビ朝日の『報道ステーション』にも、日本ハムの監督に就任した栗山英樹の後任扱いで、プロ野球担当スポーツキャスターとして定期的に出演している[139]

また、2011年まで栗山が務めていた朝日放送の「熱闘!高校野球ナビゲーター」を継承。全国高等学校野球選手権大会の予選・本大会期間中には、プロ野球の解説・評論活動と並行しながら、同局が制作する大会関連番組(『速報!甲子園への道』『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当する[140]

2013年7月19日、自身のブログ筑波大学大学院に合格したことを発表[141]。翌年4月、同大学院人間総合科学研究科に仁志敏久吉井理人とともに入学した[142]2014年には伊原春樹の後任として、西武監督の候補に挙がっていた[143]

福岡ソフトバンクホークス監督時代

2014年11月1日、西武、ダイエーの先輩でもあり、前任監督であった秋山幸二の勇退を受け、その後を引き継いで福岡ソフトバンクホークス監督に就任することが決定し、王貞治球団会長同席の下に就任記者会見を行った[7][144][8]。投手出身のホークスの監督は杉浦忠以来26年ぶりである。なお、監督就任にあたり、工藤の背番号は当初、王がダイエー / ソフトバンク監督在任時代に着用していた「89」をつけるという報道もされていたが[145]、前任者の秋山が着用していた「81」を引き継ぐことになった[7][144]

2015年の就任1年目のシーズンでは、交流戦は12勝6敗、首位・日本ハムと0.5ゲーム差の2位で終えるも、6月16日の阪神対日本ハム戦で日本ハムが敗れたことで、ソフトバンクの交流戦勝率1位が確定[146][147]。チーム打率・287、チーム本塁打・23本、90得点はいずれも12球団トップ[148]。福岡移転後最速でマジック38が点灯し[149]、9月6日の対楽天戦に5-3で勝利し3位以内が確定、両リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決めた[150]。9月17日、本拠地での対西武戦に勝利し、パ・リーグ最速でリーグ優勝を決める[151]クライマックスシリーズファイナルステージでは、ファーストステージ勝者のロッテと対戦。3連勝でアドバンテージの1勝を含めて4勝0敗で日本シリーズへ進むこととなった[152]。 10月29日の日本シリーズ第5戦では、5-0で迎えた最終回を守護神のデニス・サファテが締めくくり、就任1年目にしてレギュラーシーズン、クライマックスシリーズ、日本シリーズの3部門において完全優勝を成し遂げた。2016年1月18日、野球殿堂入りを果たした[153][154][155]

日本一後の胴上げ(2017年11月4日、日本シリーズ第6戦後)
日本一後の胴上げ(2018年11月3日、日本シリーズ第6戦後)

2016年は首位を独走し、一時は2位に最大11.5ゲーム差をつけていたが失速、日本ハムに逆転されて2位に終わり、CSでも敗退し、秋山監督時代から続いた日本シリーズ連覇が2で途絶えた。野手総合巡回コーチに関川浩一を起用したが、試合中の作戦面やブルペンとの連携、また選手の昇降格などで試行錯誤を繰り返した[156]。関川は一年で解任された。

2017年は参謀役に達川光男を一軍ヘッドコーチに招聘し、森浩之を一軍作戦兼バッテリーコーチ補佐を抜擢しベンチを強化した[157]。2位西武に13.5ゲーム差をつけてのリーグ優勝。CSは楽天に4勝2敗、日本シリーズはDeNAに4勝2敗で日本一になった。なお、この勝利で選手監督通じて、選手時代に所属した球団全てから日本一を上げることとなった。その後、2018年2019年は2年連続でシーズン2位からの下剋上を果たし、日本シリーズ3連覇を達成した。就任5年でリーグ優勝2回・日本一を4度達成し、2019年シーズン終了後2021年までの契約延長が発表された[158]

2020年は中盤から首位に立ち一時は独走状態となりながら、10月に入り9日には2位ロッテにゲーム差なしまで迫られたが、直後の12連勝で2位以下を突き放し、10月27日、2位ロッテとの直接対決に勝利し3シーズンぶりのリーグ優勝を果たす。そのままの勢いで更に6連勝を記録し、日本プロ野球新記録となる月間22勝を達成[159]。特別に2位チームとの3戦先勝方式のみとなったCSをロッテに連勝し突破、巨人と2年連続対戦となった日本シリーズでは、第4戦の1回表以外巨人にリードを許すことなく前年に続き4連勝で優勝、2018年の第3戦から続く日本シリーズにおけるチームの試合連勝記録を12、また2011年の第7戦から続く日本シリーズにおける本拠地連勝記録を16にまで伸ばした。

2021年3月27日のロッテ戦(福岡PayPayドーム)での勝利で、戦後生まれおよびドラフト制導入後[160]に就任した監督としては最速の837試合で監督通算500勝を達成した[161][162]。同年4月29日の対北海道日本ハムファイターズ6回戦の勝利で監督通算513勝を挙げ、野村克也が南海ホークス時代に挙げた512勝を抜き、球団歴代1位の鶴岡一人の1773勝、同2位の王貞治の968勝に次ぐホークス球団史上歴代3位の勝利数となった[163]。10月10日に自身初のBクラス確定が濃厚になったことを受けて監督を辞任する意向であることが報道され[164]、10月25日に行われた最終戦をもって監督を退任。これがソフトバンクの監督生活7年間で唯一のBクラス(4位)かつシーズン負け越しとなった。王貞治球団会長は「本当に、考えていた成績とは違った。今年は今年で来年も、と思っていたんだけども。常に、意思が固かったので受け入れざるを得なかった。」とコメントし、工藤監督の退任を認めた[165]。工藤は直接指導も含め、投手陣の整備に力を発揮した[166]。育成出身の千賀滉大をエースに育て上げ、東浜巨石川柊太も先発ローテーションに定着[166]。中継ぎも毎年のように若手が台頭し、投手王国を築き上げた[166]。野手では17年から育成出身の甲斐拓也を正捕手起用し、日本代表の扇の要にまで成長させた[166]

ソフトバンク監督退任後

2022年2月18日、監督在任中の2020年3月に修士課程を修了し、修士(体育学)を取得した筑波大学大学院の博士課程に合格したことが報じられた[167][168]

2022年からは日本テレビの野球解説者を務める他、福岡の各放送局(テレビ西日本RKBテレビNHK福岡)やニッポン放送等のゲスト解説者としても出演。2023年からはTBSチャンネルの解説者も務める。

選手としての特徴

MAX149km/hストレートとスピンの効いた大きなカーブが武器[169]。晩年になるにつれ、スライダーやシンカーなど徐々に球種を増やしていったが、基本的にはストレートとカーブを軸としたピッチングを組み立てていた。本人が自著にて「ストレートとカーブだけではプロのバッターは抑えられません。でも、それぞれを何種類か持っていればいいのです。要は緩急をつけることです」と語っている通り、ストレートは130km/h後半と140km/h中盤~後半、カーブは100km/h~130km/h台までを約10km/h刻みで操り、かつそれをバッターに悟られないように同じフォームや腕の振りからコーナーにそれを投げ分ける投球術を磨くことで勝ち星を重ねた。[170]これは工藤が西武ライオンズ時代に慕っていた東尾修から「9回2アウト満塁、2ストライク3ボールから、百発百中で狙ったところに緩急自在にコントロールできるのか?それができない球種は、自分の持ち球とは言えない」と教えを受けていたことを起点としており、巨人時代に上原浩治から球種を増やすことについて相談を受けた際にも「今持っている球種を、もっと正確に磨いた方がいいんじゃない?」と同様の助言をしている。[171]

現役時代、肉体管理を徹底し[172]、特に栄養値の高い食事をしたり青汁を飲んだりするなど体調管理には気を遣っていたことで有名だが[97]、そうなったのは結婚してからで、それ以前は毎日のように朝まで飲み歩いては二日酔いのまま登板するという不摂生な生活を繰り返していた[173]。それが蓄積され1988年シーズン途中から不調に陥り、89年には肝機能障害を発症。医師から「選手生命以前に死ぬよ」と告げられるほどの状態になり、1989年シーズンは何度も二軍落ちを繰り返し4勝8敗・防御率4.96という散々な成績で、戦力外通告を覚悟したという。同年オフに結婚した際のプロポーズは「(野球を辞めて)山にこもって暮らそうよ」だったが、妻が「夫をもう一度野球を出来る身体にして、野球で喜ぶ顔が見たい」と、引退を考えていた工藤を説得し、夫婦二人三脚での体質改善に取り組むようになった。工藤はその後約1年間のリハビリを経て復活、以降体調管理には非常に気を遣うようになった[174][175]

現役時代は股関節のトレーニングを重点的に行っていた。きっかけは、西武時代の1992年に大腿部の肉離れを起こした際、筑波大学教授及びスポーツトレーナーの白木仁[注 32]のもとを訪れたことであった[177]。同年のシーズンオフに白木のもとで肩のトレーニングに加えて股関節のトレーニングも同時に行うこととなり、白木がドイツで学んだレッグランジ[注 33]、腰割り[注 34]といったトレーニングを行った。白木によるとこのトレーニングを始めた当初の工藤は股関節が全く動かなかったが、トレーニングを積んだ結果股関節が柔らかくなり、足が上がるようになったことで投球の際の動作が良くなった。さらにランニングがよくなる(楽に走れるようになった)という効果が表れ、その後も工藤はランニングの最中に腰割りを取り入れていたという[177]。元力士で1983年の初土俵から昭和以降の力士で最高齢となる46歳11か月で現役を引退した2007年まで24年間大相撲の土俵に上がった一ノ矢充は、白木との対談の中で工藤は股関節のトレーニングを行っていたことで野球界のさまざまな最年長記録を更新できたのではないかと述べている[177]

監督・指導者として

在任7年間で978試合558勝378敗42分け(勝率.596)を記録。クライマックスシリーズの通算成績は24勝8敗で、敗退したのは日本ハムとの2016年ファイナルステージのみだった。日本シリーズは出場5度で20勝4敗1分で、全て日本一を手にした。日本シリーズは2018年第3戦から退任まで12連勝、ポストシーズン全体では2019年ファーストステージ第2戦から16連勝と短期決戦に無類の強さを誇った[179]。ソフトバンクを常勝球団として構築した一人と認められる[180]

ペナントレースでも3度のリーグ優勝を成し遂げたが、2016年北海道日本ハムファイターズに最大11.5ゲーム差を逆転されリーグ優勝を逃した。後に工藤は「自分の思っている野球だけでは勝つことはできないし、強いチームはできない。それからは選手にアドバイスする時も自分の話し方や言葉の使い方を変えながらやっていけるようになった。」と述べ、「自分にとっては転機になる1年だった。」と振り返っている[181]

翌年の2017年は正捕手の固定に向け、育成選手出身の甲斐拓也を抜擢。2018年からは甲斐が試合や練習で感じたことをその日のうちにつづり、工藤がチェックする「交換日記」を始めた。また、シーズン中には遠征先の部屋に甲斐を招いて3, 4時間ほど対話をすることもあった。甲斐は後にゴールデン・グラブ賞を5度獲得する球界屈指の捕手に育ち、「めちゃくちゃ厳しかったけど、その中に愛情があった。1人の人間、社会人、野球人としてたくさん教えてくれたのも、キャッチャー甲斐拓也をつくってくれたのも工藤監督だった」と感謝を口にしている[182]

2020年新型コロナウイルスの感染拡大によりシーズン開幕が延期される中、複数の開幕予定日を想定し、そこへ向けた選手の調整法を何通りにも渡って自宅でシミュレーションしていた。結果としてこの年は3年ぶりのリーグ制覇及び日本シリーズ4連覇を達成している[181]

キャンプでは「長く現役でやるのに必要なものを作り上げる為」におよそ10種類ほどのメニューを考案し、強化指定選手を指導[183]。メディアからは「工藤塾」と呼ばれた。 練習後には選手全員が悲鳴を上げながらその場に倒れこむほどハードな練習だったが、強化指定を受けた千賀滉大岩嵜翔東浜巨らはその後チームの主力として活躍している[184]。また、投手部門には巡回コーチを配置し、三軍を抱える大所帯の中でも選手に一貫した指導を行えるシステムを構築した[181]

自宅の仕事部屋には選手の成績、データ、コンディショニングの分析のほか、組織づくりや故障防止についての考えをまとめたファイルが並んでいる[181]。また、試合中にメモするノートとは別のノートに選手やコーチに伝える内容を整理するルーティーンを監督就任以降欠かさず続けていた[181]

人物

ドラフト会議前の『中日スポーツ』では「好きなプロ球団は巨人。好きなプロ野球選手は原辰徳篠塚和典(ともに巨人)」と報道されており、本人も「近所の人に(地元の)中日に入ったら、とよく言われますが、僕は巨人が好きなんです。巨人戦はテレビでよく放送するから…」と話していた[55]

顔つきから[69]、入団1年目には「カリメロ」のあだ名で呼ばれていた[80]。また、新人年の1982年にはビッグマウス[注 35]で知られ、1年先輩の秋山幸二小野和幸から「変わったやつだ」と見られていた[185]。巨人時代の2004年オフには、母校の名古屋市立久方中学校で講演会を行い、在校生から将来の夢について尋ねられ「メジャーに行くこと」と答えていた[41]

1980年代当時の野球選手の普段着は、大き目の襟のゴルフシャツ、ベスト、スラックス、エナメル靴、ヘアスタイルも角刈り、パンチパーマが当たり前であったが、DCブランド、ジーンズ、スニーカーを着こなし、ヒーローインタビューで笑いをとったり、優勝決定時の胴上げに加わらず、カメラに向かってはしゃぐ等のパフォーマンスをよく行っていた。そのため、先輩等に酷評されることもあったが、1986年の新語・流行語大賞では、その年の流行語「新人類」を象徴して清原和博渡辺久信と共に表彰され、球界に新風を吹かした先駆者であった[187][188]。また渡辺とは翌1987年の春季キャンプの頃、テレビ朝日ニュースステーション』で「クドちゃんナベちゃんのキャンプフライデー」というコーナーを持ったことがある。

1987年の日本シリーズで巨人に勝利する直前、一塁を守っていた清原が号泣していたというのはよく知られるエピソードだが、この試合に先発し9回まで投げていたのが工藤であった。清原を見て「打者は左バッターの篠塚さん、清原は涙でボールが見えないからインコースを引っ張られ一塁に打球が飛ぶと危ない」と判断し、ファーストに打たせない投球を心がけアウトコースで勝負することを選択、篠塚を外角高めへのストレートでセンターフライに打ち取り完投、胴上げ投手となっている。これについて、工藤を兄と慕っていた清原は自著の中で「泣き虫の弟にどこまでも優しい兄だった」「ゲームセットの瞬間、工藤さんに抱きついて思いっきり泣いた」と感謝を述べているが、工藤自身は試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったため)どんなガッツポーズにしようかマウンド上で考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつ「自分のこれまでの野球人生の中で、最も力を込めて投げた一球だというふうに思う。あの涙は本当に美しかった」と語っている。[189]

ダイエー時代の1999年9月11日の近鉄戦、ノーヒットノーランがかかった8回二死の場面において、打者の鈴木貴久に3ボール1ストライクとなり、捕手の城島健司がマウンドに来て「歩かせましょう。次のバッターで勝負しましょう。ノーヒットノーラン、チャレンジしましょうよ」と言った際には、「俺はノーヒットノーランをするためにマウンドに上がってるんじゃない。勝つために上がっているんだ。いいから座ってろ」と拒否。結果的には、続く5球目を左翼スタンドに運ばれホームランとなったものの、結局このソロ本塁打のみの被安打1で完投勝利した。これについては、この試合前の時点で2位西武とのゲーム差が0.5であり、ダイエーとしてはなんとしても勝たねばならなかった状況だったことに加え、工藤が四球で走者を出すことでピンチが広がったり大量失点につながる可能性を生むことを嫌い、鈴木との勝負を選んでいた。工藤は「打たれた瞬間、城島はガックリしていたけど、俺は別に何も思わずに投げていた。とにかく『個人成績ではなく、チームとして勝つ』ことに執着することで、ホークスを勝てる組織にしたいとずっと思っていた」と振り返っている[190]

巨人移籍1年目の2000年7月14日の対ヤクルト戦では、6回まで無四球被安打1で投げ終え、唯一ピンチを迎えた7回一死ランナー1,2塁ではペタジーニ古田敦也に対し、打席内でのわずかな目線の動きと素振りの軌道、前の打席までの結果から内角狙いと見抜き、外角低めのストレート3球勝負に出て3球三振(共に見逃し三振)に獲った。当時の監督であった長嶋茂雄はこのピッチングに感動し、次の試合もあるのでとこの回での交代を希望した工藤に「工藤、次の試合はいいから、この試合だけ最後まで投げてくれ。これだけのピッチングを見せられて、こんなところで俺は代えられない。ファンの方々に申し訳ない。」と目を爛々とさせて工藤を説得、工藤は9回を投げ切り1-0で完封勝利を挙げ、長嶋からは「2000年ペナントレースのベストゲーム」と称された。[191]

読売ジャイアンツ球団公式サイト内に『僕の野球塾』という少年野球指導コーナーを長きにわたって掲載しており、野球少年に「正しいトレーニング」の重要性を伝えていた。全国の野球少年からの質問が殺到する人気コーナーのため、データの蓄積は膨大な量となった。工藤は2006年に同タイトルの書籍を講談社から刊行している。横浜移籍後は横浜球団ウェブサイトにデータ・権利が引き継がれていた。

子供たちに夢を与える活動「夢の課外授業」の発起人として、2000年より全国の小学校を訪問している。毎年オフに神宮の室内球技場で行っているチャリティキッズベースボールスクールも2009年までに15回開催(主催二十一世紀倶楽部)。

選手の指導に関しては、特に投手がプロ入り後に投球フォームを変える風潮について、「利き手を右から左に変えるようなもの」として否定的な態度を示している[192]。また自身が監督やコーチに就任した場合は「いじらない。いじったら自信もなくなってしまう。それでダメなら納得いく」という考えも示している[192]

左利きながら、ペン・箸は右で持つ。

人間関係

ダイエー時代のチームメイトであった藤井将雄とは良き理解者として親交があった[193][194]。ダイエー時代の工藤はチームを強くしたい一心で嫌われ役に徹し、他選手に対して厳しい言葉を投げかけていたため、不平不満が溜まることも少なくなかった[193][195]。それに対し藤井は「工藤さんは、決してお前たちのことが嫌いだから言っているんじゃない。お前たちやチームのためにと思って言ってくれているんだ!」とフォローする[194]など、孤立しかねない状況の中で間に入ってくれる存在でもあった[193]。そのエピソードを聞いた工藤自身も「涙が出るほど嬉しかった」と振り返っている[194]。また、巨人移籍後に藤井が2000年のホークスリーグ優勝決定後6日後に肺がんで31歳の若さで急逝した際には葬儀に参列、同年の日本シリーズ第一戦で先発した際、ダイエーの先発であった若田部健一と共に、藤井の右肩の遺骨をポケットに偲ばせマウンドに上がった[196]

横浜時代のチームメイトであった加藤康介は、工藤の姿を見て大いに勉強させられ、横浜を戦力外通告後に阪神に移籍した際の活躍の原動力になったと語っている[197]。工藤自身も『報道ステーション』2013年7月12日放送分にて加藤の奮闘ぶりを讃える発言をしている。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1982 西武 27 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 122 28.2 22 0 21 2 1 29 1 0 11 11 3.41 1.50
1983 23 2 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 138 33.1 30 6 13 0 0 24 0 0 13 12 3.24 1.29
1984 9 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 53 12.1 10 1 10 0 1 8 0 0 4 4 2.92 1.62
1985 34 14 8 0 1 8 3 0 -- .727 554 137.0 84 13 73 2 2 104 1 1 44 42 2.76 1.15
1986 22 20 10 2 1 11 5 0 -- .688 586 145.1 111 22 56 3 1 138 1 0 53 52 3.22 1.15
1987 27 26 23 2 2 15 4 0 -- .789 899 223.2 181 18 64 4 2 175 2 0 65 60 2.41 1.10
1988 24 20 11 2 0 10 10 1 -- .500 694 159.0 164 18 70 6 1 94 4 0 77 67 3.79 1.47
1989 33 17 4 0 0 4 8 2 -- .333 540 118.0 126 12 76 4 2 94 9 0 70 65 4.96 1.71
1990 13 13 4 1 0 9 2 0 -- .818 359 85.2 58 11 46 1 2 89 4 0 33 32 3.36 1.21
1991 25 23 10 4 1 16 3 0 -- .842 705 175.1 124 17 75 1 0 151 4 0 55 55 2.82 1.13
1992 25 24 6 3 0 11 5 0 -- .688 645 150.2 140 17 69 3 3 133 4 0 60 59 3.52 1.39
1993 24 23 4 0 0 15 3 0 -- .833 697 170.0 129 10 65 4 2 130 5 0 46 39 2.06 1.14
1994 24 22 4 1 1 11 7 0 -- .611 554 130.2 120 12 44 0 3 124 2 1 54 50 3.44 1.26
1995 ダイエー 22 22 6 1 1 12 5 0 -- .706 652 163.0 137 15 48 0 0 138 4 0 69 66 3.64 1.13
1996 29 29 9 1 0 8 15 0 -- .348 867 202.2 207 17 70 2 1 178 6 0 94 79 3.51 1.37
1997 27 27 0 0 0 11 6 0 -- .647 670 161.1 153 14 48 2 3 146 2 0 61 60 3.35 1.25
1998 15 14 1 0 1 7 4 0 -- .636 386 93.2 90 8 28 1 2 65 0 1 35 32 3.07 1.26
1999 26 26 7 3 2 11 7 0 -- .611 754 196.1 143 12 34 1 1 196 6 1 56 52 2.38 0.90
2000 巨人 21 21 1 1 1 12 5 0 -- .706 545 136.0 127 14 16 0 1 148 5 0 53 47 3.11 1.05
2001 5 5 0 0 0 1 3 0 -- .250 103 21.1 35 3 7 1 0 8 2 0 21 20 8.44 1.97
2002 24 24 1 1 0 9 8 0 -- .529 681 170.1 157 21 26 3 2 151 5 0 61 55 2.91 1.07
2003 18 18 4 2 1 7 6 0 -- .538 483 117.0 117 15 22 2 3 115 1 0 56 55 4.23 1.19
2004 23 23 2 0 0 10 7 0 -- .588 596 138.2 160 27 33 1 1 128 3 0 78 72 4.67 1.39
2005 24 24 1 0 0 11 9 0 0 .550 595 136.0 159 26 44 3 1 130 4 0 73 71 4.70 1.49
2006 13 13 0 0 0 3 2 0 0 .600 295 70.0 69 12 19 0 3 52 0 0 41 35 4.50 1.26
2007 横浜 19 18 0 0 0 7 6 0 0 .538 442 103.2 118 6 28 1 4 73 2 0 46 45 3.91 1.41
2008 3 3 0 0 0 0 2 0 0 .000 70 13.2 21 3 5 0 1 7 2 0 13 8 5.27 1.90
2009 46 1 0 0 0 2 3 0 10 .400 172 37.1 53 11 14 1 0 24 2 1 30 27 6.51 1.79
2010 西武 10 0 0 0 0 0 2 0 0 .000 33 6.0 11 1 4 0 0 7 0 0 7 7 10.50 2.50
通算:29年 635 472 116 24 12 224 142 3 10 .612 13890 3336.2 3056 362 1128 48 43 2859 81 5 1379 1279 3.45 1.25
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

タイトル

  • 最優秀防御率:4回(1985年、1987年、1993年、1999年)
  • 最多奪三振:2回(1996年、1999年)
  • 最高勝率:4回(1987年、1991年、1993年、2000年)※最多タイ記録(他は山田久志)、パ・リーグで3回は山田に次ぐ2位タイ。両リーグで獲得は他に杉内俊哉のみ

表彰

記録

初記録
投手記録
  • 初登板:1982年4月10日、対阪急ブレーブス前期1回戦(西武ライオンズ球場)、6回表二死に2番手で救援登板、1/3回無失点
  • 初奪三振:同上、6回表にウェイン・ケージから
  • 初勝利:1982年8月31日、対日本ハムファイターズ後期9回戦(西武ライオンズ球場)、5回表二死に2番手で救援登板、3回1/3を無失点
  • 初先発:1983年8月4日、対南海ホークス16回戦(西武ライオンズ球場)、3回1/3を2失点
  • 初先発勝利・初完投勝利:1985年7月9日、対南海ホークス12回戦(大阪スタヂアム)、9回2失点
  • 初完封勝利:1986年6月18日、対南海ホークス11回戦(西武ライオンズ球場)
  • 初セーブ:1988年6月5日、対阪急ブレーブス11回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初ホールド:2009年5月5日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、7回裏に2番手で救援登板、1回無失点
打撃成績
節目の記録
日本シリーズにおける記録
  • 出場14回 ※史上最多タイ
  • 通算102奪三振 ※史上最多
  • 1試合奪13三振:1999年第1戦 ※歴代2位タイ[199]
  • イニング三者連続三球三振:1994年第2戦3回 ※シリーズ史上初
  • 両リーグ勝利投手:パ8勝(西武で7勝、ダイエーで1勝)、セ1勝(巨人で1勝) ※史上3人目
その他の記録
  • 実働29年 ※山本昌中嶋聡と並び史上最長タイ
  • 年齢別最多勝:42歳で11勝、44歳で7勝
  • 23年連続勝利 ※歴代1位タイ)
  • 通算224勝利 ※最多勝タイトルを一度も獲得していない投手として史上2位、またシーズン20勝以上が1度もない選手としては史上最多[200]
  • 1イニング4奪三振:1996年8月2日、対千葉ロッテマリーンズ戦17回戦(福岡ドーム)、7回表 ※NPB史上3人目
  • 最年長ホールド:46歳4か月 - 2009年9月20日、対中日ドラゴンズ23回戦(ナゴヤドーム)、8回裏一死に3番手で救援登板、2/3回無失点
  • リーグ最多被本塁打を記録していない投手の通算被本塁打:362 ※歴代最多
  • オールスターゲーム出場:10回(1986年、1987年、1991年、1993年、1995年、1997年、1999年、2000年、2004年、2005年)
監督としての記録
節目の記録
  • 500勝:2021年3月27日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(福岡PayPayドーム)、3-2で勝利 ※史上31人目(球団史上4人目)、837試合での到達は球団最速、歴代3位[201]

背番号

現役時代

  • 47(1982年 - 1994年、1997年 - 2009年)
  • 21(1995年 - 1996年)
  • 55(2010年)

21をつけたダイエー時代の1995年と1996年以外は2009年まで47を背負い続けたことから、47は工藤、あるいは左腕投手の代名詞と言える背番号となっている[注 36]。2010年は背番号を55にした。

1995年ダイエー移籍時、西武時代と同じ背番号47を希望したが、1994年途中よりケビン・ライマーに与えられていたためやむなく21をつけた。その後、1995年限りでライマーが解雇されたが、1996年はスコット・ライディ47を引き継いだため、移籍3年目の1997年に希望通り47が与えられた。21は西武時代の先輩でプロ選手の心構えを教えてもらった東尾修の現役時代と同じ番号で、西武在籍時のチームメイトでもある渡辺久信が1998年にヤクルトに移籍した時も工藤同様、背番号21をつけている。

21をつけていた2年間はかなりの違和感を覚えていたといい、1999年シーズン終了後に巨人に移籍する際も47を希望。当時47を付けていた小野仁13に変更した。横浜に移籍する際も背番号47をつけ、前年まで47を付けていた堤内健は36に変更した。

背番号47が左腕投手に与えられる例として、ダイエーは工藤の退団後に入団した左腕の杉内俊哉に、工藤の背番号であった47を与えたが、二人には左腕という他に、夏の甲子園でノーヒットノーランを記録しながら優勝できなかった、カーブが得意、隔年で調子を崩す傾向があるなどといった共通点がある。また、杉内は入団時、工藤について尊敬していると語り、目標にしている選手であると語った。なお、杉内は2012年に巨人に移籍した際に背番号18を与えられた(47をつけていたのは左腕投手の山口鉄也)。西武での後輩にあたる左腕の帆足和幸は、2001年の入団以来何度も47への変更を訴え、2006年にようやく認められている。その後、帆足は2009年オフに工藤が西武復帰を決めた際、背番号47を工藤に返還する意向を見せたが、工藤はそれを固辞し、55を選んだ。なお、帆足は2012年にソフトバンクへ移籍し、背番号を11としたが、2013年から背番号を47としている。また、同じく左腕投手の野口茂樹が中日時代(1995年~2005年)に47を付けたが、1999年の日本シリーズ・第1戦で「背番号47」同士の先発投手対決となった。

2009年11月16日に埼玉西武ライオンズの入団会見を行った際に、背番号55を選んだ理由として、ホークス時代のチームメイトであり急逝した藤井将雄が生前に着用していた背番号15を意識し、「彼の5番が入るのでいいと思う。彼の分も野球を続けていこう、と心に決めていた」と語った。また「子供たちから『イケイケゴーゴー』だと言われたし、自分の誕生日も5月5日なので」とも語った。

背番号の上の名前の英字表記はいずれも「KUDOH」であったが、西武(第1次)在籍時の1985・1986年頃は同姓選手が在籍していなかったにもかかわらず「K.KUDOH」のユニフォームも併用(ビジター用は1985年の日本シリーズ第3戦登板時、ホーム用は1986年のリーグ優勝を決めた10月9日のロッテ戦登板時に着用を確認)。

監督時代

  • 81(2015年 - 2021年)

背番号の上の名前の英字表記は「KUDO」。

年度別監督成績

リーグ公式戦



























2015 ソフトバンク 1位 143 90 49 4 .647 - 141 .267 3.16 52歳
2016 2位 143 83 54 6 .606 2.5 114 .261 3.09 53歳
2017 1位 143 94 49 0 .657 - 164 .259 3.22 54歳
2018 2位 143 82 60 1 .577 6.5 202 .266 3.90 55歳
2019 2位 143 76 62 5 .551 2.0 183 .251 3.63 56歳
2020 1位 120 73 42 5 .635 - 126 .249 2.92 57歳
2021 4位 143 60 62 21 .492 8.5 132 .247 3.25 58歳
通算:7年 978 558 378 42 .596 Aクラス6回、Bクラス1回
  • 太字は日本一
ポストシーズン










2015 ソフトバンク パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ3位) 4勝0敗=日本シリーズ進出
(※1)
日本シリーズ 東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ1位) 4勝1敗=日本一
2016 パ・リーグクライマックスシリーズ
ファーストステージ
千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ3位) 2勝0敗=ファイナルステージ進出
パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ1位) 2勝4敗=ファイナルステージ敗退
(※2)
2017 パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
東北楽天ゴールデンイーグルス(パ・リーグ3位) 4勝2敗=日本シリーズ進出
(※1)
日本シリーズ 横浜DeNAベイスターズ(セ・リーグ3位) 4勝2敗=日本一
2018 パ・リーグクライマックスシリーズ
ファーストステージ
北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ3位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出
パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
埼玉西武ライオンズ(パ・リーグ1位) 4勝2敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ 広島東洋カープ(セ・リーグ1位) 4勝1敗1分=日本一
2019 パ・リーグクライマックスシリーズ
ファーストステージ
東北楽天ゴールデンイーグルス(パ・リーグ3位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出
パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
埼玉西武ライオンズ(パ・リーグ1位) 4勝1敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ 読売ジャイアンツ(セ・リーグ1位) 4勝0敗=日本一
2020 パ・リーグクライマックスシリーズ 千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ2位) 3勝0敗=日本シリーズ進出
(※1) (※3)
日本シリーズ 読売ジャイアンツ(セ・リーグ1位) 4勝0敗=日本一
  • 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※1 リーグ優勝したチームに与えられるアドバンテージの1勝を含む。
※2 ディスアドバンテージの1敗を含む。
※3 2020年は新型コロナウイルスの影響によりファーストステージを実施せず、レギュラーシーズン1位チームと2位チームによる1ステージのみとし、当初の日程を変更したため試合数も4戦3勝先取制に規模を縮小して開催。

関連情報

著書

単著

  • 『僕の野球塾:「考える力」こそ最強の武器』(講談社、2006年3月、ISBN 4062133555/講談社+α文庫、2011年5月、ISBN 9784062814263)
  • 『現役力:自分を知ることからすべては始まる』(PHP研究所、2009年3月、ISBN 4569706827)
  • 『47番の投球論(ベストセラーズ、2009年3月、ISBN 4584122210)
  • 『限界を作らない生き方:2009年、46歳のシーズン』(幻冬舎、2010年1月、ISBN 4344950984)
  • 『探究力。:人間「工藤公康」からのメッセージ』(創英社、2010年3月、ISBN 4881421913)
  • 『工藤公康の10km/h速くなる投球術』(別冊宝島、2011年4月、ISBN 4796682163/決定版、2012年2月、ISBN 4796696601)
  • 『折れない心を支える言葉』(幻冬舎、2012年1月、ISBN 9784344020801)
  • 『野球の本当のこと、ぜんぶ話そう!』(宝島社、2012年7月、ISBN 9784796695893)
  • 『野球のプレーに、「偶然」はない:テレビ中継・球場で観戦を楽しむ29の視点』(カンゼン、2013年4月、ISBN 9784862551771)
  • 『「10年先の自分」をつくる』(KADOKAWA、2013年10月、ISBN 9784046000231)
  • 『プロフェッショナル投手育成メソッド:一流投手へ導く“投球メカニズムとトレーニング”』(カンゼン、2023年3月、ISBN 9784862556677)
  • 『工藤公康 配球とは』(PHP研究所、2023年4月、ISBN 9784569854403)

共著

  • (白澤卓二)『40歳から進化する心と体』(青春出版社(青春新書)、2013年3月、ISBN 9784413043908)

監修

  • 『工藤公康のピッチングバイブル:DVDでマスター』(カンゼン、2012年6月、ISBN 9784862551306)

関連書籍

  • 『ON対決初戦工藤公康86球にこめた戦い!:スコアラーの目から…』(吉見健明著、三省堂スポーツソフト、2000年10月、ISBN 4385602328)
  • 『工藤公康「42歳で146km」の真実:食卓発の肉体改造』(黒井克行著、講談社+α新書、2006年1月、ISBN 4062723573)
  • 『工藤公康 粗食は最強の体をつくる!:食事を変えれば、体が楽になる!強くなる!若くなる!』(幕内秀夫著、三笠書房、2006年4月、ISBN 4837921868)
  • 黒井克行『工藤公康 プロフェッショナルの矜持』新潮社、2006年10月30日。ISBN 978-4104489046。 
  • 『強打者 工藤公康が語る、18.44メートル向こうのライバルたち』(飯尾哲司著、竹書房、2015年3月、ISBN 4801901468)

出演

テレビ出演

ラジオ出演

その他

  • クッキングパパ(モーニング 2015年35号、2015年7月30日) - 本人として登場[205]、作中の登場人物工藤三平の親戚というオリジナル設定。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ a b 天白区(かつての愛知郡天白村)は1975年2月1日に昭和区から分区独立した[19]
  2. ^ 天白区で誕生したとする文献もある[1]
  3. ^ 工藤の父親は宮崎県延岡市出身[15]。2011年9月29日に延岡市内の病院で肺がんにより死去(76歳没)[16]
  4. ^ 公康の父親や、黒井克行 (2006) は「(公康は)5人兄弟の四男として生まれた」と述べている[14][17]
  5. ^ 『中日新聞』 (1981) は天白区高坂町出身と報道している[18]
  6. ^ 小中学校の1年先輩には佐藤啓(中京テレビアナウンサー)が[20]、2年後輩には紀藤真琴中京高校から1983年のドラフト会議で広島から3位指名 / 広島・中日楽天)がいる[21]
  7. ^ 『週刊朝日』 (2011) は「公康の父は、息子がプロ入りした際の契約金で名古屋に自宅を建てたが、後にその家を売り払って帰郷した」と述べている[24]
  8. ^ 公康は後年に「自分だけでなく、兄たちも父親に強制的に野球を教えられていたが、最終的には野球が嫌いになって辞めていった」と述べている[33]
  9. ^ 後に投球フォームは江夏豊を参考にしたと語っている[36]
  10. ^ 上2人の兄は私立高校に入学したが、公康の時点では公立高校でなければ経済的に進学は困難だった[42]。しかし公康は当時、公立高校へ進学できる程度の学力を有していなかった[42]
  11. ^ ベースボール・マガジン社 (1987) によれば、最初に享栄高校から勧誘され、次いで名古屋電気高校からも勧誘された[1]。また同じ名古屋市にあった中京高校(現:中京大中京高校)に兄が通学しており[34]、工藤自身は中京からの勧誘を待っていたが、結局は中京からは勧誘されなかった[1](工藤の父は、中京からの勧誘が来た時点では既に名電入学の話が進んでいたため断ったと述べている)[34]。工藤の父親によれば、工藤は自身とともにある高校の野球部監督と寿司屋で会合した際、監督から言われるがままに寿司を食べた(一時は遠慮したが「野球選手がたくさん食えんでどうする」とさらに勧められた)ところ、監督を「オレの前で寿司を食ったヤツは、オマエが初めてだ!」と憤慨させてしまい、その件が原因で同校への進学は見送ることになったと述べている[34]
  12. ^ 山本は中学時代から県下一の捕手として知られており、中村は山本を活かす投手を探していたところ、工藤に目をつけた[45]
  13. ^ 高校時代、槙原との直接対決はこれが唯一だった[48]
  14. ^ 選手権大会としては8年ぶり[53]
  15. ^ 当時、大会史上3位タイ[55]。このうち、9回までに奪った三振は16で、この試合で与えた四死球はゼロだった[53]
  16. ^ 同年のドラフト会議では社会人野球に好投手がいたため、(1巡目入札で)1位指名される可能性がある高校生はこの3人のみと予想されていた[58]
  17. ^ a b なお、槙原はドラフト会議前に「希望する球団は(地元の)中日、その次は在京のセ・リーグ球団。それ以外ならセ・リーグならどこでも」と表明していた[82]
  18. ^ 複数球団の競合が予想されていたが[62]、本人は広島入りを強く希望し、広島や大洋・阪神以外の球団への入団は拒否する意向を表明していた[63]。結局、広島が単独1位指名[64]
  19. ^ 工藤は同年の国体終了後に「セ・リーグに入りたい。できれば小さいころからファンだった巨人がいい」「パ・リーグに指名されたら熊谷組に就職する」と表明していた[55]
  20. ^ 実際に西武との入団交渉に入ったところ、工藤の父が態度を軟化させたことについては、「(西武が)他球団に指名させないために芝居を打たせた」と指摘する声が上がり、ヤクルトスワローズのスカウトは「バカバカしい」とコメントしていた[60]
  21. ^ 熊谷組は当時、「工藤は我が社に入社する約束をしており、二重契約ではないか」と反発していた[60]。また当時は「(工藤が西武に入団すると)父は名古屋市交通局に勤めづらくなるので、西武系企業に転職するのではないか」と噂されたり、「熊谷組に入社すれば3年後に中日に入団させる」という密約があったとまことしやかに伝えられたりしたことで、工藤家は地元ファンからの嫌がらせを受け、電話番号を変えることを余儀なくされた[69]
  22. ^ 名電高校の校長・後藤淳は野球部監督・中村豪とともに「学校に相談せず、熊谷組への就職を反故にして西武から契約金を受け取り、入団を決めた工藤の行動は遺憾だ。企業の信頼を裏切る結果になった」との態度を表明していたが、工藤のプロ入りについては「学校が決めるものではない」としていた[73]。結局、後藤校長は熊谷組から入社内定取り消しの連絡を受け、工藤の父に対し「名電OBとして、プロに入っても恥ずかしくないよう頑張るように」と答えたほか、この件で高校側から工藤にペナルティが課されることはなかった[74]。ただし、工藤は(この件とは別に)父親の意向で学校の許可なく指定外の自動車教習所に通っていたことが発覚し、校則違反のペナルティとして、停学と丸坊主にさせられた[60][75]
  23. ^ 最終的に入団拒否[86]。翌1982年度のドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受け入団[87]
  24. ^ ただし、広岡は自著 (2016) で「工藤を『坊や』と呼んではいたが、特別扱いしたわけではなく、自分のそばに置いて私生活も野球も厳しく鍛えていた」と述べている[90]
  25. ^ 19歳でのプレーオフ勝利投手は2021年現在まで史上最年少
  26. ^ キップ・グロス(日本ハム)の17勝、西口文也(西武)の16勝に次ぐ[109]
  27. ^ この年は本来140試合制であり、工藤はそれに1⅓回不足していたが、プロ野球ストライキの影響で2試合が中止となり代替試合が行われないまま138試合でシーズンが終了したため、規定投球回に到達したことになる。ちなみに工藤にとってこの年が規定投球回に達した最後のシーズンとなった。
  28. ^ のちに最年長200勝を含めいずれも山本昌が記録を更新している。
  29. ^ 2018年に上原浩治が43歳3ヶ月で更新。
  30. ^ 実働10年未満では一軍公式戦初登板時すでに45歳9ヶ月であった浜崎真二がいる(実働3年)。
  31. ^ プロ野球記録は1950年9月28日、阪急の浜崎真二が対大映戦で打った48歳9か月。
  32. ^ 工藤のほかにもプロゴルファーの片山晋呉のコンディショニングを担当したほか、2000年のシドニー五輪及び2004年のアテネ五輪ではシンクロナイズドスイミング日本代表のトレーナーとして帯同し、同代表の銀メダル獲得に貢献した実績を持つ[176]
  33. ^ 足を肩幅くらいに開いて立ち、一歩前に足を踏み出して膝を曲げ、腰を落とすトレーニング[177]
  34. ^ 足を軽く広げ、腰を少し上下させる運動[178]。白木はイチローがバッターボックスに入る前に行っていた動作はまさに腰割りであると述べている[177]
  35. ^ 厳しいことで知られていた広岡について「ウチのオヤジより優しそうな人です」と発言したり、栗橋茂(近鉄)に頭部死球を与えた際に「野球人生、いろいろありますから…デッドボールだって、与えますよ」と発言したりしており、後者の発言に対し栗橋は「高校生新人のくせに生意気だ」と憤慨していた[185]。また西武の厳しい練習については「これなら、中日に行っていたほうがましだった」と軽口を叩いていた[186]
  36. ^ 日本プロ野球名球会所属の投手では、工藤に先立ち小山正明が1958年から引退した1973年まで47を付けていた。小山は右腕投手である。また、現役最終年は横浜の前身に当たる大洋ホエールズに所属したため、工藤と同じチームで背番号47をつけた「先輩」でもある。

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関連項目

外部リンク

  • 個人年度別成績 工藤公康 - NPB.jp 日本野球機構
  • 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube
  • 野球殿堂 工藤公康 - 公益財団法人野球殿堂博物館
  • Instagram
福岡ソフトバンクホークス監督 2015 - 2021
 
業績
野球殿堂表彰者
競技者表彰
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
プレーヤー
2000年代
2010年代
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エキスパート
2000年代
2010年代
2020年代
特別表彰
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
新世紀
2000年代
投手
打者
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
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特別賞
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1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
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1950年代
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1980年代
1990年代
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1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
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パシフィック・リーグMVP
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
パシフィック・リーグ最優秀防御率
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
パシフィック・リーグ最多奪三振
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1989年にタイトル制定
パシフィック・リーグ最優秀勝率投手
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
2002年から2012年は最優秀投手として表彰。
セントラル・リーグ最優秀勝率投手
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1973年から2012年までは表彰なし
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
パシフィック・リーグ ベストナイン(投手)
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
 
パシフィック・リーグ ベストナイン(2回)
1987年 パシフィック・リーグ ベストナイン
1993年 パシフィック・リーグ ベストナイン
セントラル・リーグ ベストナイン(投手)
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
 
セントラル・リーグ ベストナイン(1回)
2000年 セントラル・リーグ ベストナイン
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
 
パシフィック・リーグ ゴールデングラブ賞(2回)
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
投手 - 捕手
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
西武ライオンズ開幕投手
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
福岡ダイエーホークス開幕投手
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
  • 20-21 中止
西武ライオンズ - 1981年ドラフト指名選手
指名選手
歴代の新語・流行語大賞の受賞者 (年間大賞選定以前) >>
第1回(1984年)
オシンドローム(新語)

ジェーン・コンドン(『タイム』フリー記者)

まるきん まるび(流行語)

渡辺和博(イラストレーター)

第2回(1985年)
分衆(新語)
イッキ!イッキ!(流行語)
第3回(1986年)
究極(新語)
新人類(流行語)

清原和博、工藤公康、渡辺久信

第4回(1987年)
マルサ(新語)
懲りない○○(流行語)
第5回(1988年)
ペレストロイカ(新語)

ニコライ・ソロビエフ(駐日ソビエト連邦大使)

今宵はここまでに(いたしとうござりまする)(流行語)
第6回(1989年)
セクシャル・ハラスメント(新語)

河本和子(弁護士)

オバタリアン(流行語)
第7回(1990年)
ファジィ(新語)

三上遵太郎(松下電器産業電化研究所所長)

ちびまる子ちゃん(現象)(流行語)

トーマス・リード(『ワシントン・ポスト』東京支局記者)

※受賞者の役職は当時のもの。
報道ステーション
歴代出演者
メインキャスター
サブキャスター
コメンテーター
スポーツキャスター
スポーツキャスター(メイン以外)
お天気キャスター
リポーター
 テーマ曲の
アーティスト・作曲家
派生番組
前身番組
関連番組
関連人物
関連項目
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