本多政朝

曖昧さ回避 この項目では、本多忠勝の孫にあたる大名について説明しています。本多正信の孫にあたる旗本については「本多政朝 (旗本)」をご覧ください。
 
凡例
本多 政朝
本多政朝像
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 慶長4年(1599年
死没 寛永15年11月20日(1638年12月25日
戒名 法輪院殿天誉紅雲龍沢大居士
墓所 兵庫県姫路市書写山の圓教寺
官位 従五位下甲斐守従四位下侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
上総大多喜藩主→播磨龍野藩主→播磨姫路新田藩主、播磨姫路藩
氏族 本多氏
父母 父:本多忠政、母:妙高院
兄弟 栄寿院忠刻円照院政朝忠義
本多忠朝の娘・千代
政長、政信
養子:政勝
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本多 政朝(ほんだ まさとも)は、江戸時代前期の大名上総国大多喜藩の第3代藩主、播磨国龍野藩主、播磨姫路藩の第2代藩主。忠勝系本多家宗家3代。本多忠勝の孫。

略歴

慶長4年(1599年)、本多忠勝の長男本多忠政(後に姫路藩の初代藩主)の次男として生まれる。母は松平信康の娘・熊姫

叔父である上総大多喜藩主本多忠朝慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で討死すると、幼少である忠朝の子・本多政勝に代わって大多喜藩を相続する。元和3年(1617年)に播磨龍野藩5万石に移封される。その後、寛永3年(1626年)に兄であり本多家宗家播磨国姫路藩の嫡子である本多忠刻が病死すると、宗家の嫡子となる。

寛永8年(1631年)、父の死去により家督を相続して姫路藩主となった。なお、相続前に所有していた5万石は、弟の本多忠義に1万石、従兄弟の本多政勝に4万石を分与した。

寛永15年(1638年)死去。跡を政勝が養子となって継いだ。

系譜

父母

正室

子女

養子

墓所・霊廟

  • 兵庫県姫路市の圓教寺に本多家廟屋があり、忠政の廟所は寛永15年(1638年)に建立された[2]

出典

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  1. ^ 本多政勝の養子
  2. ^ “本多家廟屋”. 姫路市. 2021年1月12日閲覧。
本多家大多喜藩3代藩主 (1615年 - 1617年)
本多家
阿部家(宗家)

1619年から1623年まで廃藩

青山家

1625年から1638年まで廃藩

阿部家(政澄流→忠吉流)
阿部家(正春流)
稲垣家
大河内松平家
本多家龍野藩藩主 (1617年 - 1627年)
本多家
小笠原家

1632年から1633年まで幕府領

岡部家

1635年から1637年まで幕府領

京極家

1658年から1672年まで幕府領

脇坂家
本多家姫路新田藩2代藩主 (1627年 - 1631年)
本多家
奥平松平家
酒井家
本多家姫路藩2代藩主 (1631年 - 1638年)
池田家
本多家
奥平松平家
結城松平家
榊原家
結城松平家
本多家
榊原家
結城松平家
酒井家