ハンク・グリーンバーグ

ハンク・グリーンバーグ
Hank Greenberg
1937年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州の旗 ニューヨーク州ニューヨーク
生年月日 (1911-01-01) 1911年1月1日
没年月日 (1986-09-04) 1986年9月4日(75歳没)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手左翼手
プロ入り 1929年
初出場 1930年9月14日
最終出場 1947年9月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
アメリカ合衆国野球殿堂
殿堂表彰者
選出年 1956年
得票率 84.97 %
選出方法 BBWAA選出
この表について
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プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ヘンリー・ベンジャミン・グリーンバーグHenry Benjamin Greenberg1911年1月1日 - 1986年9月4日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク出身の元プロ野球選手 (一塁手左翼手)。ニックネームは「Hammerin' Hank」。

MLBにおける最初のユダヤ系スター選手として知られている。

1947年ジャッキー・ロビンソン黒人初のメジャーリーガーとなり、多くの人種差別や嫌がらせを受けたが、グリーンバーグも多くの軋轢を経験した[1]

骨折第二次世界大戦による従軍により、シーズン通じてプレイした(100試合以上に出場)のは9シーズンだけであるが、通算331本塁打・1276打点を記録している。そのため、現役離脱がなければ、500本塁打・1800打点以上は記録出来たとされる[2]

経歴

少年時代・メジャーリーグ入団まで (1911年 - 1930年)

ニューヨーク州ニューヨークのグリーンウィッチ・ビレッジにて、ルーマニアからの移民であるユダヤ人の父デービッドと母サラの間に誕生した。

兄弟が多い家庭で育ち、4歳年上の兄・ベン (Ben) 、5歳年下の弟・ジョー (Joe) 、2歳年上の姉・リリアン (Lillian) がいた。兄のベンと弟のジョーはハンクと同じく、野球をしていた[3]

ブロンクスに移住後、ジェームズ・モンロー高校とニューヨーク大学を経て[4]1929年9月にフリーエージェント選手としてデトロイト・タイガースと契約を結んだ[5]

1930年マイナーリーグのラレー・キャピタルズ (英語:Raleigh Capitals) とハートフォード・セネターズ (英語:Hartford Senators) で計139試合に出場し、打率.303・27二塁打・16三塁打・21本塁打という打撃成績を記録、高い打力を発揮した。守備面では2チームで計138試合のファースト守備に就き、25失策守備率.981という成績に終わり、拙守だった。当時、グリーンバーグは19歳であった[6]

デトロイト・タイガース時代 (1930年 - 1946年)

1930年
9月14日、地元での対ニューヨーク・ヤンキース戦にてメジャーデビューを果たした。同試合には途中出場して1打席に入ったが、ヒットは放てなかった[7]。同年メジャーで試合に出場したのは、この試合だけであった。
1931年 - 1932年
1931年はマイナーでプレーし、メジャーでの試合出場はなかった。マイナーではエバンスビル・ハブズ (Evansville Hubs) とビューモント・エクスポーターズ (英語:Beaumont Exporters) で計129試合に出場し、打率.318・41二塁打・10三塁打・15本塁打という打撃成績を残した。なお、ビューモントでは3試合に出場しただけであり、安打は全てエバンスビルで放ったものである。守備では、126試合のファースト守備で25失策・守備率.982という成績を残し、前年からほぼ横這いの数字となった[6]
1932年はフルシーズン、ビューモントでプレーした。この年は154試合に出場し、マイナーでは初めて打率.300未満 (.290) に終わったが、自己記録を大きく更新する39本塁打を放った。守備も改善され、154試合でファーストを守って17失策・守備率.989という数字だった[6]
1933年
3年ぶりにメジャー復帰を果たした。この年からファーストのレギュラーに定着し、117試合に出場して打率.301・12本塁打・87打点・6盗塁という好成績をマークした。守備面では15失策を犯し、守備率.988だった。
1934年
ゴーデー社 (Goudey) の
グリーンバーグのカード
この年は153試合に出場し、大きく躍進するシーズンとなった。打率.339 (リーグ6位) ・26本塁打 (同7位) ・139打点 (同3位) という数字を記録し、打撃三部門でリーグベスト10に入る活躍ぶりだった。また、リーグ1位となる63本もの二塁打を放ち、これは1シーズンでの本数としてはメジャー歴代4位となる記録である[8]。グリーンバーグの活躍は、タイガースの25年ぶりのワールド・シリーズ進出に大きく貢献したが、セントルイス・カージナルスに敗れてシリーズ制覇はならなかった。MVP投票では6位にランクインした[9] (同年の受賞者はチームメイトのミッキー・コクレーン) 。
同年は9月10日ローシュ・ハシャナ (ユダヤ暦新年) 、9月18日ヨム・キプル (ユダヤ暦の贖罪の日) であり、グリーンバーグは両日で試合を欠場する旨を発表した。しかし、この発表に対してファンの間からは「ローシュ・ハシャナは毎年やってくるが、タイガースは1909年以来ペナント・レースを制していないのだ」との不平が出た。このファンからの意見についてグリーンバーグは悩み、ラビ (ユダヤ教の指導者) とも相談の上で、ローシュ・ハシャナに行われる試合には出場することを決めた(ヨム・キプルは欠場した)[10]。同試合に「6番・ファースト」で出場したグリーンバーグはソロ・ホームランを2本放ち、チームはこの2点によりボストン・レッドソックスに勝利した[11]
1935年
この年はオール・スターまでに25本塁打・103打点を記録していたが、カクレーン監督はグリーンバーグをオール・スターのメンバーに加えなかった。これは、反ユダヤ運動に対する懸念があったためであるとされる[12]。このような不遇にも直面したグリーンバーグだったが、最終的には152試合に出場し、打率.328・36本塁打・170打点・4盗塁・OPS1.039という好成績を記録し、本塁打王と打点王のタイトルを獲得した。また、MVPにも選出された。チームは2年連続でワールド・シリーズに進出し、シカゴ・カブスを破って初の世界一に輝いた。同シリーズでは第2戦でホームランを放ったが、同試合で手首を骨折した。
多くのタイトル獲得、ワールド・シリーズ制覇があった一方で、オール・スター不選出、手首の骨折など起伏に富んだシーズンを送った。
1936年
4月で12試合に出場し、打率.348・出場試合数を上回る16打点を記録ていたが、再び手首を骨折して残りのシーズンを棒に振ってしまった。
1937年
1937年のオール・スター・ゲームにて
(左から順にルー・ゲーリッグジョー・クローニンビル・ディッキージョー・ディマジオチャーリー・ゲーリンジャージミー・フォックス、ハンク・グリーンバーグ)
手首の骨折から復活し、初めてオール・スターの一員に選出された(試合出場はなし) 。この年は183打点を記録し、自身2度目となる打点王のタイトルを獲得したほか、打率と本塁打でもリーグベスト10入りした。守備面では154試合のファースト守備で13失策・守備率.992という成績を残した。シーズン180打点以上を達成しているのは1930年のハック・ウィルソン (191打点) と1931年のルー・ゲーリッグ (185打点) だけである[13] (2015年シーズン終了時点) 。打撃三部門の数字は、自身初のMVPに輝いた1935年より上だったが、この年はチャーリー・ゲーリンジャー(チームメイト) 、ジョー・ディマジオに次ぐ3位に終わった[14]
1938年
この年は58本塁打を放ち、ベーブ・ルースが保持する60本塁打のシーズン記録(当時)にあと一歩のところまで迫った。また、この年は11試合でマルチ本塁打を記録しているが、これはメジャー記録 (1998年サミー・ソーサも達成) である[15] (2014年シーズン終了時点) 。58本塁打という記録は、1998年にマーク・マグワイアとソーサが破られるまで右打者のシーズン最多本塁打記録だった。MVP投票では、2年連続で3位に終わった[16]
なお、この年にグリーンバーグがルースの本塁打記録を超えられなかったのは、反ユダヤの感情を持つ投手が意図的に四球を与え、グリーンバーグに本塁打を打たせなかった(いわゆる敬遠)とする意見もある。事実、この年はリーグ最多の119四球を記録しており、グリーンバーグのキャリアを通じて最も四球率が高かったとするデータもある[10][17]
1939年
出場試合数が3年ぶりに150試合を下回り、それに伴って打撃成績も若干低下した。しかし、3年連続でオール・スターに選出され、初めて試合にも出場した。「5番・ファースト」で起用されたグリーンバーグは3打数1安打を記録し、四球を1つ選んだ[18]。守備面では、100試合以上でファーストを守ったシーズンとしては自身初となる1ケタ台の9失策に留め、守備率.993を記録した。
1940年
この年はルディ・ヨークに一塁のポジションを譲り、グリーンバーグはレフトにコンバートされた。4年連続でオール・スターの一員に選出され、試合には途中出場した。また、いずれも自身3度目となる本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、1935年以来5年ぶりとなる打撃二冠に輝いた。さらに自身2度目となるMVPにも選出されたが、前回選出された際は一塁手だったため、MLB史上初めて異なるポジションでMVPに選ばれた選手となった[10]。チームはワールド・シリーズまで駒を進めたが、シンシナティ・レッズに敗れ、世界一はならなかった。
1941年 - 1945年
従軍時のグリーンバーグ
この年は4月半ばから5月上旬にかけて19試合に出場したが、ナチス・ドイツに対する強い反感がグリーンバーグを駆り立て、メジャーリーガーとしては初めて第二次世界大戦に従軍することになった[10]。その後、28歳以上の人物を採用しない国の方針により一時軍を外れたが、真珠湾攻撃が発生したことにより再度従軍した[10]。以後、1945年に終戦するまでアメリカ陸軍航空軍 (US Army Air Forces、現在のアメリカ空軍) の一員として戦争に参加した。
終戦後、タイガースに復帰したグリーンバーグは78試合に出場し、打率.311・OPS0.948を記録、従軍前と変わらぬ打棒を発揮した。シーズン最終戦ではグランドスラムを放ち、チームのリーグ優勝に貢献。また守備面でも72試合でレフトを守り、ファーストを守っていた時代も含め、初めて無失策と安定した守備を発揮した。ワールド・シリーズでは2本塁打を放ち、チーム史上2度目のシリーズ制覇の原動力となった。
1946年
この年、ファーストに再コンバートされると本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、自身3度目となる打撃二冠(いずれも本塁打と打点)を達成した。しかし、打率は.300に届かなかった。また守備面でも、失策が15まで激増して守備率.989という成績だった。

ピッツバーグ・パイレーツ時代・引退まで(1947年)

1947年
ピッツバーグ・パイレーツ時代のグリーンバーグ(1947年)
タイガースは年俸の減額を提示するが、グリーンバーグはこれを受け入れなかったため、交渉が決裂した。これを機にグリーンバーグは引退を考えるようになり、他方でタイガースは1月18日に彼をピッツバーグ・パイレーツトレードした[5]。パイレーツは、グリーンバーグに引退を思い止まらせるべくナ・リーグ史上初となる10万ドルの年俸を提示し、フォーブス・フィールド (当時のパイレーツの本拠地) のレフトスタンド側にブルペンを建設して、レフトスタンドまでの距離を短縮する改修を行った。このレフトスタンドは「グリーンバーグ・ガーデン (Greenberg Garden) 」と名付けられた[15]。また、当時パイレーツの共同オーナーであった歌手ビング・クロスビーは、コメディアングローチョ・マルクスと共にグリーンバーグを歓迎する「Goodbye, Mr. Ball, Goodbye」という曲を製作した。
同年パイレーツでは125試合に出場して25本塁打を放ち、リーグ最多の四球を記録したが、一方で打率.249に終わり往年の強打は発揮されなかった。しかし、グリーンバーグの存在は当時メジャー2年目のシーズンを迎えたラルフ・カイナーに多大な影響を与え、カイナーにとっての良き指導者となった[10][15]。カイナーについて、グリーンバーグは以下のようなコメントを残している[10]
"Ralph had a natural home run swing. All he needed was somebody to teach him of the value of hard work and self-discipline. Early in the morning on off-days, every chance we got, we worked on hitting."
「ラルフは、天性のホームラン・ヒッターだ。彼が必要としていたのは、懸命にプレーすることと自己鍛錬の重要性を説ける誰かである。オフの日は朝早くから、チャンスさえあれば、我々は打撃練習に取り組んだ。」 (和訳)
9月29日、パイレーツは契約を解除し[5]、この年限りで現役を引退した。

引退後(1948年 - 1986年)

1948年、当時クリーブランド・インディアンスのオーナーであったビル・ベークから、チームのファーム・ディレクターとして雇われた。[15]。その後、1950年にはファーム組織のゼネラル・マネージャーに就任し、チームの再建及び1954年のリーグ制覇に大きく貢献した[10]

その後、シカゴ・ホワイトソックスの共同オーナー及びバイス・プレジデントに就任した[10]。ホワイトソックスのフロント在籍中の1956年BBWAAの殿堂入り投票にて193票中164票の賛成票を獲得し[4]、得票率約85 %でアメリカ野球殿堂に選出された。9年目の挑戦での選出であった。1959年、ホワイトソックスはリーグ制覇を果たし、インディアンス時代に続いてチームの躍進に貢献した。

1963年、インベストメント・バンカー (Investment banker:証券引受業者) に転身し[10]、野球界から完全に身を引いた。

1970年に勃発したカート・フラッド事件では、ジャッキー・ロビンソンビル・ベックらと共に選手側の証人として法廷に立ち、カート・フラッドを擁護する立場を取った[19]

グリーンバーグのタイガース在籍時の背番号「5」。
デトロイト・タイガースの永久欠番1983年指定。

引退後も健康体で過ごしていたグリーンバーグだったが、1980年代に入ってが進行した[10]1983年、現役時代の大半を過ごしたタイガースで在籍時の背番号5』が、かつてのチームメイトだったチャーリー・ゲーリンジャーの『2』とともに永久欠番に指定された。

その3年後の1986年9月4日カリフォルニア州ビバリーヒルズで逝去。75歳だった[10]。グリーンバーグの墓は、カリフォルニア州ロサンゼルスにあるヒルサイド・メモリアル・パーク (Hillside Memorial Park) に建てられている。

ジョー・ディマジオは、グリーンバーグについて以下のコメントを残し、彼の打棒を高く評価していた[10]

"He was one of the truly great hitters, and when I first saw him bat, he made my eyes pop out."
「彼は間違いなく、真に偉大な打者の1人だった。私が彼の打撃を初めて見た時、目玉が飛び出すような思いだったよ。」 (和訳)

詳細情報

年度別打撃成績 (メジャー)

















































O
P
S
1930 DET 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 0 -- .000 .000 .000 .000
1933 117 499 449 59 135 33 3 12 210 87 6 2 2 -- 46 -- 1 78 -- .301 .367 .468 .835
1934 153 667 593 118 201 63 7 26 356 139 9 5 9 -- 63 -- 2 93 -- .339 .404 .600 1.005
1935 152 710 619 121 203 46 16 36 389 170 4 3 4 -- 87 -- 0 91 -- .328 .411 .628 1.039
1936 12 55 46 10 16 6 2 1 29 16 1 0 0 -- 9 -- 0 6 -- .348 .455 .630 1.085
1937 154 701 594 137 200 49 14 40 397 183 8 3 2 -- 102 -- 3 101 -- .337 .436 .668 1.105
1938 155 681 556 143 175 23 4 58 380 146 7 5 3 -- 119 -- 3 92 -- .315 .438 .683 1.122
1939 138 604 500 112 156 42 7 33 311 112 8 3 11 -- 91 -- 2 95 8 .312 .420 .622 1.042
1940 148 670 573 129 195 50 8 41 384 150 6 3 3 -- 93 -- 1 75 15 .340 .433 .670 1.103
1941 19 83 67 12 18 5 1 2 31 12 1 0 0 -- 16 -- 0 12 1 .269 .410 .463 .872
1945 78 312 270 47 84 20 2 13 147 60 3 1 0 -- 42 -- 0 40 9 .311 .404 .544 .948
1946 142 604 523 91 145 29 5 44 316 127 5 1 1 -- 80 -- 0 88 17 .277 .373 .604 .977
1947 PIT 125 510 402 71 100 13 2 25 192 74 0 -- 0 -- 104 -- 4 73 16 .249 .408 .478 .885
通算:13年 1394 6097 5193 1050 1628 379 71 331 3142 1276 58 *26 35 -- 852 -- 16 844 *66 .313 .412 .605 1.017
  • 「--」は公式記録なし。
  • 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。
  • 太字はリーグ1位。
  • 1931 - 1932年、1942 - 1944年は試合出場なし。

年度別打撃成績 (マイナー) [6]

















































O
P
S
1930 Raleigh 122 - 452 - 142 26 14 19 253 - - - - - - - - - - .314 - .560 -
Hartford 17 - 56 - 12 1 2 2 23 - - - - - - - - - - .214 - .411 -
'30計 139 - 508 - 154 27 16 21 276 - - - - - - - - - - .303 - .543 -
1931 Evansville 126 - 487 - 155 41 10 15 261 - - - - - - - - - - .318 - .536 -
Beaumont 3 - 2 - 0 0 0 0 0 - - - - - - - - - - .000 - .000 -
'31計 129 - 489 - 155 41 10 15 261 - - - - - - - - - - .317 - .534 -
1932 154 - 600 - 174 31 11 39 344 - - - - - - - - - - .290 - .573 -
通算:3年 422 *1597 1597 - 483 99 37 75 881 - - - - - - - - - - .302 *.302 .552 *.854
  • 「-」は公式記録なし。
  • 通算成績の「*数字」は、参考記録。

タイトル

  • 本塁打王:4回 (1935年、1938年、1940年、1946年)
  • 打点王:4回 (1935年、1937年、1940年、1946年)

表彰

  • シーズンMVP:2回 (1935年、1940年)
  • オールスター選出:4回 (1937 - 1940年)
  • ワールド・チャンピオン:2回 (1935年、1945年)
  • 1シーズンでのマルチ本塁打記録:11試合 (1938年)

※ 以上、いずれもア・リーグで記録。

背番号

デトロイト・タイガース
  • 7 (1933)
  • 5 (1934 - 1946) - タイガースの永久欠番
ピッツバーグ・パイレーツ
  • 5 (1947)

※ 1930年は背番号なし。

出典

  1. ^ Bruce Markusen (2008年6月30日). “Greenberg's rookie season honored”. MLB.com. 2014年12月8日閲覧。
  2. ^ Steven R. Bullock (2004). Playing for Their Nation: Baseball and the American Military During World War II. University of Nebraska Press. pp. 127頁. ISBN 978-0-803-21337-1 
  3. ^ Peter S. Horvitz、Joachim Horvitz (2001). The Big Book of Jewish Baseball: An Illustrated Encyclopedia & Anecdotal History. S.p.i. Books. pp. 80頁. ISBN 978-1-561-71973-0 
  4. ^ a b Hank Greenberg Statistics and History - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  5. ^ a b c Hank Greenberg Statistics and History - Transactions - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  6. ^ a b c d Hank Greenberg Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  7. ^ September 14, 1930 NYY vs DET - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  8. ^ Single-Season Leaders & Records for Doubles - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  9. ^ 1934 Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m Hank Greenberg Baseball Stats, facts, biography, images and video. - Biography - The Baseball Page.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  11. ^ September 10, 1934 BOS vs DET - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  12. ^ Nick Acocella. “The first "Hammerin' Hank"”. ESPN Classic (ESPN.go.com). 2014年12月8日閲覧。
  13. ^ Single-Season Leaders & Records For Runs Batted In - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  14. ^ Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  15. ^ a b c d The Ballplayers - Hank Greenberg - Biography Archived 2008年1月13日, at the Wayback Machine. - BaseballLibrary.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  16. ^ 1938 Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  17. ^ Howard Megdal (2010年3月20日). “Religion Aided a Home Run Chase, and May Have Led to Its Failure”. The New York Times. 2014年12月8日閲覧。
  18. ^ July 11, 1939 All-Star Game Play-By-Play and Box Score - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  19. ^ マービン・ミラー (Marvin Miller) 、武田薫訳『FAへの死闘 大リーガーたちの権利獲得闘争記』ベースボール・マガジン社、1993年、100 - 125頁頁。ISBN 978-4-583-03094-4。 

関連項目

外部リンク

  • Baseballhalloffame.org(英語)アメリカ野球殿堂National Baseball Hall of Fame)による紹介
  • 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
 
獲得タイトル・記録
アメリカンリーグMVP
チャルマーズ賞
リーグ表彰
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
アメリカンリーグ本塁打王
1900年代
1910年代
1920年代
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
アメリカンリーグ打点王
1900年代
1910年代
1920年代
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
デトロイト・タイガース
球団
歴代本拠地
文化
永久欠番
ワールドシリーズ優勝(04回)
ワールドシリーズ敗退(07回)
リーグ優勝(11回)
できごと
傘下マイナーチーム
  • トレド・マッドヘンズ(AAA級)
  • エリー・シーウルブズ(AA級)
  • ウェストミシガン・ホワイトキャップス(High-A級)
  • レイクランド・フライングタイガース(Low-A級)
  • フロリダ・コンプレックスリーグ・タイガース(Rookie級)
  • ドミニカン・サマーリーグ・タイガース(Rookie級)
 
デトロイト・タイガース ワールド・シリーズ (2回)
デトロイト・タイガース 1935年のワールドシリーズ ロースター

2 チャーリー・ゲーリンジャー / 3 ミッキー・カクレーン / 4 グース・ゴスリン / 5 ハンク・グリーンバーグ / 6 ジー・ウォーカー / 7 ビリー・ロゲル / 8 マーブ・オーウェン / 9 ピート・フォックス / 10 トミー・ブリッジス / 13 エルデン・オウカー / 14 スクールボーイ・ロウ / 16 アルビン・クローダー / 17 チーフ・ホッグセット / 18 ビック・ソレル / 19 ジョー・サリバン / 23 レイ・ヘイワース / 24 フリー・クリフトン / 25 ジョジョ・ホワイト
監督 3 ミッキー・カクレーン

デトロイト・タイガース 1945年のワールドシリーズ ロースター
  • 1 ボブ・スイフト
  • 2 エド・ミアコウィッツ
  • 3 エディ・メイヨー
  • 4 ルディ・ヨーク
  • 5 ハンク・グリーンバーグ
  • 6 ロイ・カレンバイン
  • 7 ジョー・フーバー
  • 8 ドック・クレイマー
  • 9 ポール・リチャーズ
  • 10 トミー・ブリッジス
  • 11 ディジー・トラウト
  • 12 ジョン・マクヘイル
  • 14 ジム・トービン
  • 15 レス・ミュラー
  • 16 ハル・ニューハウザー
  • 17 ゼブ・イートン
  • 18 スタビー・オーバーミラ
  • 19 アル・ベントン
  • 20 ビリー・ピアース
  • 21 アート・ハトマン
  • 22 ボブ・マイヤー
  • 22 バージル・トラックス
  • 23 ジョン・マクヘイル
  • 24 ウォルター・ウィルソン
  • 25 ジョージ・キャスター
  • 26 チャック・ホステトラー
  • 27 ジミー・アウトロー
  • 28 スキーター・ウェブ
  • 30 レッド・ボロム
  • 34 ハブ・ウォーカー
  • 36 プリンス・オアナ

監督 32 スティーブ・オニール

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