手島栄

手島栄

手島 栄(てしま さかえ、明治29年(1896年12月10日 - 昭和38年(1963年4月18日)は、日本逓信官僚政治家位階正三位郵政大臣(第20代)、参議院議員(2期)。

経歴

鳥取県西伯郡富益村(現米子市富益町)の農家に生まれた。手島菊松の二男。

旧制米子中学校(現米子東高等学校)、第四高等学校を経て、大正11年(1922年)3月東京帝国大学法学部卒業。逓信省に入る。

昭和12年(1937年)経理局長、昭和15年(1940年)管理局長、昭和16年(1941年)航空局長官、同年10月逓信次官に任ぜられ航空局長官事務取扱を命ぜられる。昭和18年(1943年)10月退官。

戦後は実業界に入り、昭和20年(1945年)国際電気通信社長、日本郵便逓送顧問などを歴任した。昭和22年(1947年公職追放となる[1]

追放解除後の昭和31年(1956年)7月第4回参議院議員通常選挙全国区)に当選。昭和37年(1962年)7月第2次池田第2次改造内閣に郵政大臣で入閣。昭和38年(1963年)1月病気で大臣を辞任し、同年4月、現職議員のまま66歳で死去[2]勲一等瑞宝章追贈、正三位に叙される[3]

人物

宗教浄土宗。趣味は囲碁将棋

家族

妻・しげのの祖父・稲賀龍二

系譜

手島家
手島氏について、『伯州浜の目境村之聞書』に「尼子の重臣亀井能登守の家臣に手島四郎三郎あり。四郎三郎戦死後、その一子は雲州本庄に逃れ、その後境村に転住。その末裔の他一族も境村に多い」とある[4]
手島家は元来、境村(現境港市、旧境町)出身で、初代手島善四郎の時に富益村(現在の米子市富益町)に移住、農業を営みながら庄屋をつとめた旧家である。手島栄の生家は6代目善四郎時代の分家である[5]
                 ┏手島文雄
                 ┃
                 ┣悦子
                 ┃
手島善四郎…手島菊松━━手島栄━━╋手島晃
                 ┃
                 ┣邦子
                 ┃
                 ┗手島和夫

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『朝日年鑑』1948年版、175頁、「公職追放者氏名」。
  2. ^ "手島栄". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2023年1月15日閲覧
  3. ^ 『手島栄』341頁
  4. ^ 『境港市史 上巻』昭和61年 370頁
  5. ^ 『手島栄』160-161頁

参考文献

  • 『手島栄』手島栄追想録刊行会 1964年
  • 『新日本人物大観』(鳥取県版) 人事調査通信社 ツ・テ361頁
  • 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社 1984年 613頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年 285-288頁)

外部リンク

  • とっとりデジタルコレクション--手島栄
  • 近代史を飾った 西部人物伝
議会
先代
三木與吉郎
日本の旗 参議院逓信委員長
1959年
次代
柴田栄
公職
先代
迫水久常
日本の旗 郵政大臣
第20代:1962年 - 1963年
次代
小沢久太郎
日本の旗 郵政大臣 (1962年-1963年)
中央省庁等改革
郵政大臣
自治大臣
地方財政委員会委員長
地方自治庁長官
自治庁長官
自治大臣
総務庁長官
総務大臣
2001年(平成13年)1月6日、郵政大臣自治大臣総務庁長官が統合され、総務大臣が置かれた。
第1回
(定数100)
3年議員
偶数回
第2回
(定数50)
3年議員
第4回
(定数50)
3年議員
第6回
(定数50)
3年議員
第8回
(定数50)
3年議員
第10回
(定数50)
3年議員
第12回
(定数50)
奇数回
第3回
(定数50)
3年議員
第5回
(定数50)
3年議員
第7回
(定数50)
3年議員
第9回
(定数50)
第11回
(定数50)
†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。
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